戦後70年かな 4

「移民たちの『満州』」をななめ読みしていましたら、「満蒙開拓とは開墾ではなく、
中国人を使った農業経営である」というくだりがありました。もともと、農業の経験
がない人々も多く満州にわたったわけで、それは「現地の人を使って、農業をすれば
よいのだから」という声かけに応じたということもありです。
 農業がわからないところにもって、まったく気候風土がことなる満州での作物つく
りでありますので、うまくいかないのも当然でありましょう。
 開拓団の団長さんの回顧録には、自分が行く前の満州での農業について、次のよう
に記しています。
「在来農業を真似ても、極めて幼稚であり、略奪的であるばかりで、いきおい、蔬菜、
煙草作等の小規模、園耕的作物に偏する位で、私たちの眼からみて実に歯がゆく、驚
くのほかなしといったありさまであった。
 作物の品種も在来種のそのまま未改良のもの多く、役畜・耕馬も小らくの満州
で、これで犂丈を率いて、不耕起高畦栽培、堆厩肥、緑肥の施用も無く、わずかな土糞
(土を大量にして馬糞をまぜる)施用で地力を搾取しているため、連年収量は落ちて
くる。」
 ということで注目されたのが「日本における寒地農業、大型農業」の手法となりま
す。
「昭和十三年北満開拓地を視察した道農会幹事小森健治氏が、大いに北海道農法の北満
適用を唱導した。その結果は、北海道農業への、満州開拓関係機関、その首領指導者た
ちの眼を向けさせるのに役だった。」
 これにより、北海道への「実験農家選出」依頼となったわけです。
「これで、北海道の精農、実力農家の満州ゆき、満州開拓地での実績展示という、大き
な開拓制作の実現に足をふみ出すことになった。」
 北海道で実績のある農家に満州へと移住してもらい、現地での農業指導につなげよう
ということであります。