戦後70年かな 3

 たまたま二年間通った小学校が満州からの引き揚げ者による開拓地であったことも
あり、満州開拓といえば、近所のおじさんたちがやっていたことと記憶されています。
こちらが小さかったせいもあって、満州開拓地での実際について聞くこともなしであ
りました。
 当時は、戦後15年くらいでありますので、いまだなまなましい話でありました。
 昨日まで紹介した団長さんによる回想録は、1976(昭和51)年刊行のものですから、
満州開拓に行かれた方々が語り始めるのは、戦後30年ほど経過してのことのようです。
先日に手にした「移民たちの『満州』」の巻末にある参考文献・資料集をみましても
1960年代までに刊行されたものは、いくつもありませんでした。

新書782移民たちの「満州」 (平凡社新書)

新書782移民たちの「満州」 (平凡社新書)

 北海道からどのくらいの人が満州開拓団でわたったのかはわかりませんが、今回の
団長さんのことでいえば、長野で生まれ、新天地を求めて北海道に渡り、そこから
さらに満州開拓のために移住したとあります。
 長野県は満州開拓に一番人を送り込んでいるのですが、長野は小規模農家が多く、
大人数の家族を抱えることができなかったので、小学校を終えると自分のことは自分
でしなくてはいけなかったということのようです。団長さんが長野から北海道に渡っ
たのは、おばさんが住んでいたからとあります。
 それじゃどうして満州に渡るようになったのかです。
 まずはその背景です。
「昭和14(1939)年即康徳6年ごろから、食糧基地満州の日本人開拓民送出、現地での
営農問題が特に注目されるようになった。国策移民として第一次弥栄移民入植から、
ほぼ七年を経て、それまでの収容戸一万五千戸の経営成果は全く挙らず、自給自足も
不十分、いわんや食糧基地化どころでなく、一大問題となってきたのである。
・・・何せ指導者自体が、寒地農業、広面積の農法には素人といっていい位、個人経
営になって十町歩標準の配当がされても、その経営ができない、自力耕作ができない
ので、畑・水田は原住民に小作させ、『羽織百姓』という情けない経営に落ち、満拓
公社から生活資金の供給をうける深刻な状態であった。」
 すべてがうまくいってなかったわけではないでしょうが、故郷にいて農家の経験が
あるといっても、満州各地の風土がまったく違うので、作物から農法までやり方を
かえなくては、ますます行き詰まってしまうとなったわけです。