戦後70年かな 5

 北海道から満州へと開拓にわたった人は、数としてはそんなに多くないのですが、
北海道で営農実績がある人に声をかけて送り込んだということですから、いわば選良
農家であります。当然、そのような人たちを送り込むのは、容易なことではありま
せん。
 団長さんの回想録には、次のようにあります。
「板垣征夫氏は開拓総局長に転じ、この受入(北海道から移住農民の)には特別熱心
であった。渡満第一陣の実験農家に対して『もしこの企画が失敗に帰するなら、自決
して責任をとるつもりだ。諸君、永年の北海道における畜力自作営農法を生かし、満
州開拓農業はかくあるべしという経営を、実地に示してくれたまえ』と要請したこと
でも判る。
 そのことばをきいて、私の血はたぎったのだ。当時のこととて、国士気分で、男子
農人として、やり甲斐ある任務と信じ、渡満の意志を固めた。むろん家族の反対は
強かったが、私はそれを押し切ったのである。」
 満州は日本の生命線といわれていた時代であります。そこでの農業が不振で、打開
策のために白羽の矢があたったのが北海道で実際に農業を行っている人であったわけ
です。それも、有能な農家さんにです。
 こうして団長さんが満州へと渡ったのは昭和15(1940)年のことですから、もっと
早くにこれが実現していればという思いが、関係者にはあったようです。
 団長さんの回想に戻ります。
「北海道の行政も歴史的に内務省所管、植民地行政の色彩強く、農林省農林行政の
滲透は力弱いものがあり、何故もっと早期に満州開拓への北海道農法の取り入れが
実現しなかったのかが、今に顧みられる。・・・寒地の稲作、畑作、酪農の存在意義
を自らがよく知らなかったという、官僚の欠陥を、この実験農家送出でも浮彫にして
いるようで、情なく思ったことである。」
 団長さんたちの獅子奮迅の活躍で、入植後4年くらいで農業経営に見通しがたつよう
になり、各地の開拓団の指導ができるようになっていたということですから、この
地における北海道農法は、成功であったのでしょう。
 北海道農法の普及のためには、実際の農家だけでなく、指導スタッフにも北海道
関係の人がいたとありました。北海道大学で農学を学んだ人たちでありますが、
北海道開拓の人材つくりを行う専門学校は、いち早く満州にも実験農場をもって
いたとあります。その学校は八紘学院といって、いまも残っていますが、その学校
は、戦後は月寒学院と名前をかえていました。いまはまたかっての八紘学院に戻り
農業現場で働く人材を育成しているとのことです。
 こうしてなんとか将来の展望が開けたかなというところで、日本は敗戦となり、
入植地を捨てざるを得ないこととなり、翌日からは開拓団を率いて日本へと戻ること
に奔走することになります。