本をたどって 4

「えびな書店」は美術関係を専門とする古書店でありますからして、「店主の記」に
も美術に関するものが多く収録されています。
 今回に谷中の古書店信天翁」へと立ち寄ったのは、上野の美術館を駆け足でまわっ
た後でありましたが、この「店主の記」には、次のようなくだりがありました。
「それまでに見た『ピエロ』の絵はいくつあっただろうか。『見たに違いない』と
『見た』では全然違うはずで、眼にやきつけるように『見た』あるいは『鑑賞した』
のは1994年にウフィツイ美術館の二点だけだ。その後ルーヴルにも行ったし、ワシン
トンの美術館、ボストンの美術館でもピエロを『見たに違いない』はずだが、記憶には
とどまっていない。」
 「見た」と「見たに違いない」は異なるのですね、プロにしてもこうであります。
「ここに来ることは二度はあるまいと思うと立ち去りがたく、三十分もぐずぐず見て
いただろうか。」
 一つの絵に向き合って三十分も向き合っていて、やっと見ていたとなるのですね。
「ピエロ」というのは、「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」のことでありまして、
店主は可能なかぎり「ピエロ」の作品を見て回ろうと思い立ち、「全点鑑賞」をする
までの文章からの引用でありました。
 最近は「フェルメール」の絵の全点鑑賞というのが、よく話題になります。しかし
それよりも「ピエロ」の鑑賞ツアーはたいへんそうであります。
 このツアーには、奥様も同行していたようです。この本の「追い書き」は奥様が
書かれたものですが、そこには「最近はめったなことでは同行しないことに決めてい
る。一点の絵にかける鑑賞時間が違いすぎるのも同行を不可能にしている理由の一つ
である。」とありまして、それはそうでしょうね。
 これを記している奥様のお名前の文字に見覚えがあり、あれっこれってひょっと
してと思って、手元にある古い名簿を見てみましたら、なんとこの奥様は、当方の
高校の同級生でありました。なんという奇遇でありましょう。彼女が古本屋をしている
人と一緒になったという話は、クラス会で耳にしたことがありましたが、どのような
古本屋であるとかいう話にもならず、当方は旧姓しか頭にないのでありますからして、
この本を手にして、数日前に「追い書き」を見ていたはずなのに、そのときはまったく
気づきもせずでありました。
 それにしても高校時代の彼女は古本屋の女房となって、このような文章を書くよう
な人であったろうか。
 こんなことがあるからして、本をたどるのは面白いことであります。