ピーチな旅 4

 昨日に戻ってきたのでピーチな旅というのは、おしまいにしましょうと思っており
ましたが、「仙台が親戚」様に書き込みをいただいたものですから、あとすこしです。
中村眞一郎さんのものは、これまでも読みたいなと思って「頼山陽とその時代」を文庫
で購入してあったのですが、ずっと積読が続き、友人から読んでみたいといわれて、
彼のところにいったきりになっています。戻してもらっても、読めそうにもありませ
んしね。
 今回の「ピーチな旅」に持参した中村眞一郎さんの「江戸漢詩」は、「頼山陽」の
漢詩とかがたくさん取り上げられているのですが、関西の代表となるのは、残念なが
ら大阪の漢詩人ではなく、備後の菅茶山でありました。中村眞一郎さんの晩年期の
著作から「木村兼葭堂」あたりとかかわりがあった人が登場しないかなと思っていた
のですが、これはうまく確認できておりません。

木村蒹葭堂のサロン

木村蒹葭堂のサロン

「大阪に親戚」ありの当方は、にわか勉強でひいきにする足立巻一さんの「学芸の大阪」
編集工房ノア刊)を購入してページを開いたりしているのです。
「兼葭堂が大阪近世の代表的な町人学者のひとりであったことはいうまでもない。博学
多才で、その旺盛な知識欲は驚嘆のほかはなく、しかも富商の道楽でなく、家業をおろ
そかにせず、学芸の真意を自覚した人であった。その学問は、和漢学、博物学で卓出し
ていただけでなく、初歩ながら蘭学をも学んでいた。詩文、文人画、茶でも一家をなし
ていたが、古書、金石の文物、博物資料をも大量に収蔵し、しかもつねに公開すること
を心がけた。学問好きであるだけでなく、勤勉で器量が大きい。大阪町人文化の成熟の
なかから生まれ、それを象徴的に一身に表現したような人物といっていいだろう。」