年を越せず

 今年も残り少なくなりましたが、あとわずかのところで年を越せなかったというの
は、当方の左下奥歯の一本です。今年があけた時とくらべますと、なんどかに分けて
ではありますが、歯3本の欠損でありまして、この調子で落ちていきますと、8020と
いうのは、夢のまた夢となりそうです。
 それにしても、本日抜けた(歯医者へといかずに抜けてしまった。)奥歯は、この
半年以上にわたって、体調が悪くなると炎症を起こし、不快となる原因でありました。
歯に問題がというよりは歯茎に問題があったのですが、歯を失うことによって、これ
まで感じていた不快感がなくなるというのが、さびしいことであります。
これまで60数年にわたって身体の一部であって、それが失われて、不快から解放され
る、失うと楽になれるという考えには問題がありだなと、反省をすることです。
 これまで口の中にずっと違和感があったわけですから、これですこし読書にも集中
するようになるでしょうか。
 あいかわらずで、ページが稼げていない中村真一郎さんの「木村兼葭堂のサロン」
でありますが、本日手にしていましたら、次のくだりが眼につきました。
兼葭堂主人が、住んでいた大阪に留まることができず、三重の田舎に隠棲している時
の日記に関連してです。
「『日記』の大部分は空欄であり、主人は退屈と寂寥に耐えがたかったことが、その
『日記』の『曇』、『晴』、『曇或雨或風』というより他の記述のないことも、終日
来客なく、無聊をかこちながら、窓から空を眺め暮していた様子が想像され、哀れに
耐えない。あたかも、今日、停年となって長年の騒忙から解放されて、することがな
くて身を持て余している年金生活者の境遇を連想させる。あとは呆けるばかりという
状態である。」
 この時、主人は五十歳代半ばであります。主人は、このあと見事に復活を果たすの
でありますが、当方にあっては、「あとは呆けるばかり」なのでありましょうか。