あいさつ指南書  5

丸谷才一さんの「あいさつ指南」の本を話題としていますが、昨日は旧制高校で一緒の
百目鬼恭三郎さんのことを話題としたのですが、百目鬼さんの告別式で弔辞を読んでいる
のであれば、百目鬼さんともつながりのある批評家 篠田一士さんについても、丸谷さん
が弔辞を読んでいても不思議ではないのにと思って、丸谷さんの三冊のあいさつ本を見て
おりましたが、それは見あたらずでした。
 篠田一士さん関係の新聞切抜帖をひっぱって来て、篠田さんの葬儀で、だれが弔辞を
読んだのかと思ってみてみましたが、都立大学からは沢崎順之助さんがでていたことが
わかったのみです。( ちなみに、丸谷さんは亡くなってすぐに朝日新聞に「篠田一士
を悼む」という文章を寄せています。これは百目鬼記者の依頼によるものでしょう。)
 こうした人とつながりのある旧制新潟高校以来の友人へのあいさつ文が、最新刊となる
「あいさつは一仕事」に収録されていました。
 それは美術史学者であり美術評論家である中山公男さんを偲ぶ会でのあいさつです。
 丸谷さん、中山さんは旧制高校で一緒、その後東大に入ってから「秩序」という
同人誌をともにするのですが、ここには篠田さんも参加して、丸谷、中山、篠田の
三人でコラムを担当することになります。三人でコラムをというと、「世代」に掲載の
「カメラアイ」(のちに、「1945年文学的考察」としてまとめられたもの。)に先例が
ありますが、多分に、これを意識していたのではないかと思われます。
 「秩序」に連載のものを、どこかで見たことがあるように思うのですが、これはすぐ
にはでてきません。
 それで、丸谷さんが語る中山公男さんのことです。
「一高の教室の席次は成績順だそうです。前年の成績の一番よかった者が一列目の左の
机を貰う。一年生の場合は入学試験の成績順。旧制新潟高校は、そういう感じの悪い
仕組みではなくて、ヘボン式ローマ字の順序でした。Mの次がNですから丸谷の次が中山
で、隣あっていました。昭和19年、戦争が負ける前の年の文科一年です。四月、寮の庭
に白い木蓮の花が咲いていました。そして校庭にはアカシアの花。今でも目に浮かび
ます。」
 入学時期の四月の新潟ですが、「木蓮の花」と「アカシアの花」というのが東京では
なくて都おちした感じがあるものです。
「 教室で隣り合わせだったし、それに二人とも本を読むのが好きだし、すぐに親しく
なりました。・・・
 大学時代も親しくつきあって、同人雑誌でもいっしょで・・・わたしにとっては60年
以上にわたる大切な友達でした。」
 ここからは中山さんを通じての文明批評です。
「 戦後の日本が新しく手にいれたものはいろいろあります。たとえば基本的人権とか、
言論の自由とか、農地改革とか、男女平等とか。みないいことでした。すばらしい。
 しかしそれと引き換えにしてのように日本は趣味のよさを失ってしまった。上品で
優雅な感覚が大事なものでなくなり、庶民的とか生命力とかキッチとかいろいろ称して、
ガラの悪さが横行する世の中になった。その時代に逆らって悪趣味を嫌いつづけた気品
の高い批評家、志のある知識人が中山公男でありました。それはいかにも船場の格式の
高い商家の血を引く男にふさわしい生き方だった。」
 中山さんは大阪から新潟の学校に進学したのでしたか。