本日は野呂祭り 6

 野呂邦暢さんのエッセイから、篠田一士さんの翻訳したボルヘス「不死の人」につい
ての話しとなるのですが、話しは脱線して篠田一士さんの毎日新聞文芸時評」での
ことになります。
 最近の新聞の文芸時評というのは、その昔のものとちょっと違っているように思い
ます。朝日新聞夕刊の文芸時評に、石川淳吉田健一が登場してから、ほとんど
文芸誌に掲載される作品などは取り上げられることはなくなってしまいました。
これ以降は、多かれ少なかれ他紙も、これに倣うところとなって、平野謙のスタイルに
代表されるような「文芸時評」は新聞の本流ではなくなったように思います。
 篠田一士さんの毎日新聞文芸時評(昭和54年から昭和61年)は、次の本になって
います。

 篠田さんは、この本のあとがきに次のように書いています。刊行は88年7月20日
文芸時評なるものを人前で書くようになって、ほぼ三十年、その間、断続的では
あるが、週刊、日刊、あるいは月刊を問わず、定期刊行物に文芸時評の筆を執った
月々を総計すれば、ぼくのように、時評に縁薄く見られている人間でも、かなりの
分量のものを書いている。
・・・いまの若い批評家とちがって、文芸時評、あるいは、それに類する時評的な
文章を書くことは、われわれ、いやもっとまえ、つまり、昭和初年の戦前の先輩批評
家たちの当時から、文芸批評を志す人間にとっては、物心ともども、必要というか、
本筋に当たる仕事のひとつであった。」
 ここで話題は戻って、野呂邦暢さんの作品について篠田さんの文芸時評からです。
昨日に引用した「諫早菖蒲日記」は「文句のつけようのない名作」というのに続き
ます。
「 野呂氏の作品をはじめて読んだのは、もう十年前以上も昔で、題名は忘れたが、
氏自身の自衛隊でも経験に取材した作品だった。ところが、おどろいたことに、あき
らかにボルヘスの小説を下敷、もしくは、それと重ねあわせようとした奇妙な構成に
なっていて、作品の出来栄えはともかく、大変な勉強家でもあり、面白い着想をする
ひとだなと、ひそかに舌を巻いたものだった。当時は、まだ、ボルヘスの短編集の
邦訳がでたか、でないころで、あるいは英訳本で読んだのかもしれない。」
 野呂作品で自衛隊の経験に取材した作品で、ボルヘスの影響を受けたものというと
わかる人には、これだけでわかるのでありましょう。当方は、この作品のことは思い
うかばずであります。
 篠田さんは「短編集の邦訳がでたかでないころで」と、記していますが、これは
野呂さんのエッセイにあるように篠田さんの「邯鄲にて」にある、ボルヘス不死の人
を読んだことによるものであります。篠田さんが、このように時評で書いたときには、
野呂さんの「ボルヘス 不死の人」というエッセイは発表されていますが、地方の
新聞紙上でありますからして、篠田さんの眼にはとまらなかったでありましょう。
 こうした照応が、野呂さんが存命のうちにできていれば、野呂さんは早くになく
なることもなかったのではないかと思うのですが、それは関係なしでありますね。