本日は野呂祭り 5

 昨日に話題にした野呂邦暢さんの「ボルヘス 不死の人」の翻訳者である
篠田一士さんは、昭和54年から昭和61年にかけて「毎日新聞」の文芸時評
担当しています。この時期に、朝日新聞文芸時評はスタイルがかわって
しまっていたでしょうから、篠田さんの文芸時評欄というのは、実作者 
特に若手の作家にとっては、ここで取り上げられるのはたいへん励みとなった
ものと思われます。篠田さんのこの時評は、その後に小沢書店から一冊に
まとまりました。
 野呂さんは、昭和55年にはなくなるのでありますから、新作で取り上げられた
のは「落城記」のみでありました。この作品は「昭和54年10月号」でのとり
あげですが、この作品と同時に言及されているのは、小川国夫さんの作品で、
そのせいで篠田さんの書き出しは、次のようになります。
「偶然の符合だが、両氏とも地方在住の作家で、野呂氏は九州、小川氏は東海
地区と、それぞれ生地に住居をかまえたまま、ずっと作家活動を続けている。
 かなりの中堅、新進作家が、現在、いわゆる地方在住者として、旺盛な文学
活動を行っているわけで、こういう風に一覧してみると、かならずしも偶然など
とはいってられないのである。」
 ここで、地方在住者としてあげられているのはほかに、高橋揆一郎、小檜山博、
立松和平丸山健二などですが、これが書かれてから30年、健在なのは小檜山と
丸山の二人だけです。
 篠田さんが、野呂さんの「落城記」を取り上げて、たった半年後には野呂さんが
なくなって、篠田さんは、次のように書くこととなったのです。
「この二月ばかりのあいだ、いささか異常と思われるほど、内外の何人もの文学者
が世を去り、われわれを悲しませ、おどろかした。
 42歳の若さで突如死に見舞われた野呂邦暢氏について、口惜しい思いをこめて
書かなくてはならないのは、いかにも残念である。・・・
 昨秋、ここでぼくは氏の中篇小説『落城記』を取り上げ、多少の論評を加え
ながら、欠点とおぼしきものについて疑問を提示した。ずいぶん手間をかけた
苦心の作と感心したものの、さきに発表された『諫早菖蒲日記』にくらべると、
同じく歴史小説の体裁をとりながら、いろいろ問題があると考えたからである。
諫早菖蒲日記』、これは、もう文句のつけようのない名作で、この一作で野呂
邦暢の名前は現代文学史に長く記憶されることは、まず間違いあるまい。」