老年の文学6

  小島信夫さんは、小説「別れた理由」を書きはじめたことから、昔からの同業の
友人たちに「どうしてあんなものを書くことになったのか」といわれるようになったと
記しています。
 初期の小説作品は、ごくごく普通のものでありまして、ちょうど手近にあった
「微笑」という作品の一部を引用してみます。
「 僕は自分の息子を愛することができないのは、直接手をかけて育てなかった報い
だ、と知っていたが、そのために手をかけ鍛えねばならないと思ったりした。しかし
実際は僕があいさないどころではなく、憎んでいるのは、息子が不具であったから
なのだ。僕は息子の割の悪さを考えると、いても立ってもいられなくなったりした。
 妻は子供が不具であることを忘れて叱った。そして夜僕に背中を向けて泣いていた。
僕はむしろ不具であるために叱っている。僕はその意味で妻の心が一番こわいのだ。」

 ここにある「僕」は、実際の小島信夫さんとほぼ等身大に思えて、これは「唱和の
世界」には遥かに遠いものです。(ここにある息子さんが、アルコール依存となって
早くに亡くなった方のようです。)
こうした作品こそが小説であると思うと、「別れる理由」以降の作品はほとんど小説の
体をなしていないといえるでしょう。
「別れる理由」は82年3月刊行ですが、雑誌の連載は13年にもなったということです
から、小島さんは70年以降、「菅野満子の手紙」「寓話」とどっぷり「唱和の世界」に
つかっていたといえます。
「別れる理由」が完結した時、毎日新聞文芸時評」(82年10月)で篠田一士は、次の
ように評しています。(「創造の現場から」小沢書店 )

「『別れる理由』の場合には、これといった筋の一貫性もさだかでなく、ストーリーの
面白さなど、もともと論外、それに、興味のありそうな人物のだれかれも、目鼻立ちが
はっきりせず、月並みな意味合いで、小説的な感興は、ほとんどないといっていい大作
なのである。
すなわち、これほど退屈な長編小説はないということになるが、読者が思いを新たに
し、はじめから退屈さを覚悟して、この小説に取りかかるならば、退屈と思えるものの
なかには、意外と鮮烈な人間把握の機縁がまざまざとえがかれていることにおどろかさ
れるし同時に文学史的にいっても、重大、かつ決定的な成果を収めた大事業である
ことが、次第に分かってくるはずである。
 面白い小説でないことはたしかだ。従ってと、すぐさま論理を続けるわけにはゆか
ないが、この作品が傑作であるか、どうかという判断について、ぼく自身、おおむね
否定に傾くものの、ここ一世紀ばかりの日本の文学創造、とりわけ小説創造のありか、
ありようをまさぐるうえでも『別れる理由』が、外に類がない画期的な作業を敢行した
ものであることは、今ここで断言しておくし、今後とも、いくらでも詳述する心構えは
ある。」

 70年頃は、フランス小説でアンチロマンがのしてきた時代です。小島信夫さんの
「別れる理由」は、小説としての面白さを追求しないということからは、アンチロマン
の一変種であるといっても良いのかもしれません。
 それにしても退屈な小説で4千枚もあるものを読み継ぐというのは、相当な覚悟が
必要になるということです。