榛地和装本8

 編集者の藤田三男さんは、「『苦節十年型』(どころか二十年以上)の文士を
復活させた編集者・古山高麗雄さんの炯眼に敬服していた。」とあります。
古山さんが編集していたのは、「季刊藝術」ですが、これに掲載された中里恒子
さんの「残月」を読んだときのことが忘られなくて、中里さんと同様で文壇から
消えてしまった作家で、文壇にカムバックできそうな人はいないかと、「中里
さんの『此の世』の単行本を手にしながら、予想屋のような邪な心で周囲をみま
わしていた。」
 昨日に記した和田芳恵さんも、昭和49年4月に『季刊藝術」に『厄落し」を
発表してから、小説家としても認識されるようになったものです。この「厄落し」
を読んですぐに藤田さんは、旧知の「和田芳恵」さんの作品集を河出よりだす
ために、丸谷才一さんを訪ねたさいにこの作品の評価をお願いしているのであり
ました。
「丸谷さんに『厄落し』の話しをいたのには、訳がある。実をいえば私は、
和田さんの作品集をだすことに自信がなかった。社の内外からどういう評価を
受けるか。第一、そのころ和田さんが、どういうものを書いているのかさえ、
よく知らなかった。丸谷さんは私の意向には直接ふれずに、『接木の台』の
秀作である由縁を力説した。」
 和田芳恵さんの「自伝抄」には、次のようにあります。
丸谷才一の『朝日新聞文芸時評で、『接木の台』と『厄落し』がとりあげ
られた。丸谷は『接木の台』のほうへ点を入れたが、二つの短編小説だけで、
一回分がおわった。力をこめて、丸谷才一は私の小説をほめあげた。予期しない
ことであった。・・・・・
 丸谷の文芸時評が、私を突然変異させた。
 河出書房新社の出版部の藤田三男が、朝日新聞文芸時評に私の作品が採り
あげられた、その日に自宅へ着て、うちから単行本にしてだしたいといった。・・
私は頭のはたらきの早い藤田三男にことわってみたが、名のとおった書店から、
短編集を強く求められたのは、これが最初と言ってもよかった。」

 藤田さんは、「自伝抄では、丸谷さんの文芸時評がでたその日に、私が現れ、
単行本にしたいと申し入れた、とあるが、今も昔も私はそんなに機敏な編集者
ではない。和田さんが花束をくださったのである。」と書いています。
それでも、「季刊藝術」に「厄落し」が発表された直後には、パーティでお会い
した和田さんに「厄落し」を中心に短編集をださせてほしいと打診しています
ので、これは丸谷さんの時評よりも早いのかもしれません。