榛地和装本7

 藤田三男さんの「榛地和装本」の終わりのほうには、和田芳恵さんとその関係者の
本がまとめて取り上げられています。
 和田さんは昭和43年6月に倒産して再建したばかりの河出書房新社の役員として
藤田さんの前に登場します。更正会社の新社は「債権者」である作家たちの代表を
日本文藝家協会から役員として受け入れるのですが、これは無報酬、手弁当の役員で
あったとのことです。
「 就任して間もなく、和田さんは中堅・幹部社員を集めて着任の挨拶をされた。
和服を着て、生真面目に挨拶をする和田さんの系芸に初めて接した。和田さんは『自伝
抄』のなかで、河出在任中は『文藝』にはなにも書かぬこと、河出から新規に本を出さ
ないことを心に決めた、と書いている。・・・私たち三十そこそこの駆け出し編集者の
前で、和田さんは『旧文士』然として、生真面目に対応した。
 いま考えても、このころほど『苦節十年型の文士』が軽んじられたことはなかったの
ではないか。高度成長期の浮れ節に酔って、新奇なものだけを追っていた私には、
『旧文士然』としたその着物姿に違和感があったし、『進駐軍』の代表であることにも
反発を感じた。それから三年の間、私は和田さんと話をする機会を積極的に持とうと
しなかった。」
 この時代の和田さんは、小説家としては全く低調であったとのことです。
「 小説以外のものでは、『ひとつの文壇史』(昭和42年)、『筑摩書房の三十年』
(昭和45年)という二つの傑れた仕事がある。特に後者は、出版社の社史として書か
れたものだが『知』憑かれた男たちの熱情の歴史であり、傑作である。しかし、回想や
社史を書いていかに評判がよくても、小説家としての和田さんが鬱々として愉しまない
のは当然のことである。」
 今回、和田さんの「自伝抄」(講談社文藝文庫「おまんが紅」収録)をみるまで、
和田さんが昭和39年に直木賞を受けているとは知りませんでした。昭和31年には「一葉
の日記」をだして芸術院賞を受賞するのですが、これがかぞえで五十歳ですから、直木
賞の時には57歳になっていたとあります。
直木賞をもらったのち、私は芸術院賞のときに直木賞だったらと、幾度嘆いたこと
だろう。直木賞受賞というような人気作家になるためには、あまり年をとりすぎていた。
受賞第一作『狂い咲き』を「オール読物』に発表してから、つい最近まで『オール読
物』から原稿依頼がなく、・・私は、直木賞受賞で、あまり注文のない店をひらいた
ようなものだった。新しく店をひらいて商売をはじめた人は三年は赤字だというが、
私の店は、三年は、とっくにすぎても、赤字続きだった。長いあいだに多くの書き
下ろしを書いていたのは、どこからも、これといった注文がないからだった。」
和田芳恵「自伝抄」)

おまんが紅・接木の台・雪女 (講談社文芸文庫)

おまんが紅・接木の台・雪女 (講談社文芸文庫)