昨日に引いた藤田三男さんの文章に「苦節十年型(どころか二十年以上)の文士を
復活させた編集者・古山高麗雄さんの炯眼に敬服していた。」とありました。
長時間の雌伏から目覚めた最初の作家が「中里恒子」さんで、それは昭和46年の
ことだそうです。中里恒子さんは、30歳で芥川賞(39年)を受けてから、作家を
続けていたのですが、古山さんが編集をしていた「季刊芸術」に小説を発表して話題に
なったのは、それから30年ほどたった71年のことでした。
古山高麗雄さんの炯眼(「季刊芸術」での再デビュー)ということになると、それは
なんといっても「森敦」さんでありましょう。こちらは40年ぶりくらいでの再
デビューでありましたから。(もともとデビューしていたのかどうか判然としませんが、
旧制高校時代には知られた存在でしたから。)
編集者としての「古山高麗雄」さんについては、もっと話題になってもよろしいの
でしょう。もともとは旧制高校時代から小説を書いていたのですが、学校は早々に
やめてしまって、そのあと軍隊にはいり、敗戦後に会社勤めのあと、河出書房に勤務
して編集者となるのでした。この時に担当したのが「岸田国士全集」(新潮社)です。
河出の社員ではありましたが、河出では「演劇講座」を編集し、ほかの時間には
新潮社刊の「岸田国士」の編集をしていたわけとなります。
軌道にのったかに思った仕事は、昭和27年の河出の倒産でおわります。これから
6年間ほど「校正、割付、匿名の雑文書きなどをして生活した」とあります。
無職状態は、32歳から38歳ですから、こどもをかかえて生活は本当に大変でありま
したでしょう。
それからいくつかの会社で雑誌の編集などをして、「遠山一行、江藤淳、高階秀爾
がかねてから企画していた『季刊芸術』に同人として参加する。」
同人参加の半年後に、前の会社を退職して「季刊芸術」の編集に先年したとあります。
古山さんは昭和45年50歳で芥川賞を受賞しましたが、これはその当時の最年長
受賞でしたが、その後、「月山」の森敦さんが62歳で受賞して記録をやぶったとの
ことです。幼少時に旧朝鮮で暮らし、旧制高校中退、そして不安定な生活、年を
とってからの小説制作、芥川受賞と森さんと古山さんには共通するところが多く
あることです。
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