富士さんとわたし5

 富士正晴さんが船長役をつとめていた同人誌「VIKING」には、在東京の
メンバーによる「東京ブランチ」というのが結成され、現在もたぶんあるので
しょうね。「VIKING」の表紙には、神戸、東京とすりこまれているのを写真で
みたことがありました。これだけ有名で、掲載されていた文章が単行本と
なったのを機会に購入したりもしていたのに、これまで、この同人誌の現物に
は、縁がなくて手にする機会がないままできています。先日に検索をかけて
みたら、古本で2千円もしていたりしていて、これには驚いてしまいました。
 「VIKING」の東京ブランチができるにいたっては、富士正晴さんと東京を
つなぐ点と線が必要となるのですが、点の役目を果たしたのは、田井立雄さんで
線を引いたのは小沢信男さんであるようです。
 このふたりのことは、山田稔さんの「富士さんとわたし」には、次のように
登場します。
「 なお、私が初めて富士家を訪問してからほぼ一月後に、小沢信男が田井
 立雄に連れられてはじめて富士家を訪ねている。そのときの印象を彼は
 こう書いている。」
 この後に、小沢信男さんの「通りすぎる人々」富士さんの章から引用を
しているのでした。
 小沢信男さんを、富士さんのところに案内した田井立雄さんという人は、
小沢さんの「江古田文学」の仲間とのことです。ここでは、小沢さんからみた
「富士さんとわたし」であります。「サンパン」10号、05年5月刊に
載っていた「小沢信男一代記」( 南陀楼綾繁さんの聞き書き)から引用と
なります。
「 江古田文学の仲間の田井郁雄が、卒業して神戸の実家に帰って『VIKING』の
 同人になった。このときからペンネームを田井立雄としてますが、それで
 ぼくが関西に遊びにいったときに、茨木の竹藪の富士さんのお家へ田井くんに
 つれていってもらったんのです。途中の酒屋さんに寄ると、ハイこれと、
 富士さん詣での手みやげに定番の、たしか国産ウィスキーをだしてくれた。
 それが昭和29年の5月でした。 
  それからは関西へゆくたびに、茨木のお家へおたずねするのが楽しくて
 ならない。富士さんが東京へおいでのときは、電話でよびだされたことも
 ある。・・・・
  その夏がすぎて、冬がきたころ、富士さんから『VIKING』の東京ブランチを
 つくれといってきたものだと思う。昭和30年1月号の合評会を新宿の
 『もん』という喫茶店で開いたのが、東京ブランチの初会合ですから、
 支部じゃなくてブランチ。本部、支部という関係にしないという姿勢で
 しょうね。だから表紙にも『神戸・東京』と横に同列にならべて、いまだに
 そうしている。
  ・・ おもしろそうだと、すぐに乗って、人を集めるとなると、やっぱり
 『江古田文学』の連中になる。・・このころ同人の福田紀一さんが大阪から
 東京へ移住して、福田と小沢を核にすればブランチが立つだろうというのが、
 富士さんの読みだったと思う。・・それやこれや12人の、わりあい関西
 訛りの東京ブランチをはじめたんです。」
 
 富士正晴さんは、晩年に娘さんのところに身をよせて東京生活を経験するので
ありますが、富士さんの東京生活というのは、ほとんど似合わないと思うこと
です。