富士さんとわたし6

 「富士さんとわたし」というときの、富士さんは、もちろん富士正晴さんで
ありますが、「わたし」というのは、山田稔さんでも、小沢信男さんでも、
ひょっとすると小生でもありなのかもしれません。とはいうものの、小生は富士
正晴さんのお顔を見る機会もなく、まったく著作を通じたつきあいではありますが。
 富士正晴さんの著作で一番最初に購入したのは、「紙魚の退屈」でありました。
たしか、古本で購入をしたのでしょう。この本は「人文書院」からでたものですが、
当時の「人文書院」の売りはサルトル全集でありました。今は、版元の所在地は
かわってしまいましたが、かっては「仏光寺高倉」にあって、小生が知人の下宿に
いきましたら、そこは部屋貸しをしているのですが、人のはいっていないところには
人文書院」の本がストックされていたのを思い出します。こんなところを倉庫と
してつかっているのかと驚いたのでした。
 山田稔さんの「富士さんとわたし」にも、京都に出没する様子が描かれていますが、
富士さんのひいきの本やというと、これはなにをおいても「三月書房」でありました。
三月書房は、いまは三代目がやっていますが、小生の世代には先代のご夫婦が印象に
深いのでありました。
 富士さんの「贋 海賊の歌」67年12月未来社刊のあとがきには、つぎのように
ありです。 
「 昭和40年8月29日、京都の三月書房の宍戸恭一君が仙台の深夜叢書社の尾形
 尚文という人をつれて来た。わたしの雑文、詩、身の上相談といったたぐいを皆
 ごちゃまぜに打ち込んだ本を出そうという用件だった。尾形君はサインブックに
 『高笑しつつ声もなく号泣』と奇妙なことを書いた。
  全部打ち込むわけにもゆかぬので、選択は山田稔杉本秀太郎佐々木康之君らが
 やってくれたと思う。・・尾形君がわたしは一見して気に入り、どんな本にして
 くれるか楽しみだった。
  しかし、尾形君はそれから物いりのすることが続いて、遂に出版できずに終わり、
 そこへ未来社の松本昌次君から今年話があって、今度は松本君の自由な編集に
 よってこの本がでることになった。」

 深夜叢書社でありますから、これは斉藤慎爾さんがやっていたところのことで
しょう。山形大学学生寮で誕生したときいておりましたが、一時期は別な
スタッフもいたということでしょう。三月書房 宍戸さんは、吉本隆明さんなどと
ともに雑誌をやっているひとで、著作もあったはずです。店番をしているときは、
すこし大きめなパイプを手にして、本などを読んでいました。
 富士さんが求める本は、三月が注文とあとはみつくろいで段ボールはこにつめて
宅配をするという話を読んだことがありました。これなども、よほどの信頼関係に
あったからでありましょう。
 それにしても、原稿の選択が「山田、杉本、佐々木」という面々であることは、
いまから40数年前で、みなが無名であったとはいえ、ずいぶんと贅沢なことで
あります。