林達夫書簡

 林達夫さんは、自分の家族のことをあまり語らないかたでありましたが、奥さんを
通じて和辻哲郎矢代幸雄さんと姻族であり、弟さんはかっての陸軍の参謀で岩波
新書から本をだしている「林三郎さん」であり、息子さんも京大で中国考古学の学者
さんでありました。ほとんど封印されたように、家族のことについては書かれることが
なかったのに、早くに亡くなった妹さんについては、例外的に取り上げられているので
ありました。これは早くに亡くなったことで墓碑銘のような意味合いだったのでしょうか。
 妹さんについて言及しているのは「三木清の思い出」という文章のなかでです。

「或る年の或る日の朝、法政大学の教授室にいると、突然学生服を着た逞しい未知の
青年が私を訪ねてきたことがある。私の妹が、呉市の警察署に拘束されているから、
それをお知らせするとともに、もしかしてあなたの方で消息がわかったら自分にも
知らせて欲しいとの事であった。私はてっきり左翼運動をやっている労働者だと思った。
名前も別に聞かなかった。・・・・
 その青年は、私の妹と夫婦関係にある、六高出の、広島の名望家の子息であった。
二人は呉工廠の中へ党細胞を作るためのオルグとして派遣され、小学校オルグとして
派遣され、小学校教員というふれこみで仕事をしている最中に、一味のものと一緒に
とらえられてしまったのだという。」

 この文章によって、林さんには職業軍人の弟さんだけでなく、若くして亡くなった
共産党活動家の妹さんがいたこともわかったのです。
 この妹さんについては、71年6月30日付 中野重治さん宛の手紙にもとりあげら
れているのでした。中野重治さんの運動仲間が残した文集を読んで、その感想を
中野重治さんに書こうとしているうちに早世した妹について書いていたということで、
次のように書いています。

「 気が付いてみると『運動』中病にたおれて、下谷のわびしいアジトで急死した
亡妹の話をセンチメンタルに書いている始末で、中断したままになっています。
安田徳太郎からの使いで、行方の知らなかった妹のその重体になっているという
下駄屋の二階の二畳の間にいったというときには、夏とはいいながら、うすいせんべい
ふとんの上で、こときれてい、1尺ー2尺の粗末な小机と、壁にはってあるハガキ形の
ローザ・ルクセンブルグの肖像以外にはなにもありませんでした。下駄屋の若主人から
すぐに遺骸をひきとってくれというので、京都からかけつけた母と相談の上、落合の
知り合いの小寺に遺骸をうつしましたが、その住持や母や兄弟を説得して、その通夜
にも一切の読経をやめてもらい、遺骸を深紅の絹にくるんでやって、そのそばで一夜を
明かし、焼き場にもっていくのが、ぼくのやれた唯一のことです。・・
 そのずっと前、妹が同志社女子大学に、たぶんまだ在学中、本郷座だかへ、山本
安英主演の「なにが彼女をそうさせたか』を観につれていったとき、最後の幕切れに、
安英扮するところのすみこの叫びに呼応するように、彼女が客席から飛び上がって
こちらには聞き取れぬ何事かをすみこに対して絶叫したすがたを忘れません。」

 もともと公開されることを想定していない書簡でありますから、このような文章が
かかれたものでしょう。まさか、死後に、これをおさめる書簡集が刊行されて、
ひろく読まれるなんて亡くなった林さんは、思ってもみなかったでしょう。