名作スケッチ2

 今から40年近くも前の朝日新聞日曜版に連載されていた「名作スケッチ」について
です。
 昨日に引き続いての話題ですが、本日は、白柳美彦さんがとりあげている作品と
白柳さんご本人についてです。
 白柳美彦さんという方は、小生にとっては、この連載コラムでしか名前を目にする
ことがなくて、いったいどういう人であったのかと思っておりました。以前に、この
コラムのことをネットで調べたりしたのですが、まったくヒットせずで、この白柳さん
についても名前を義彦さんと記憶していたせいもあって、情報を得ることができません
でした。今回、古いスクラップブックを取り出してきて、新聞の切り抜きにあたって
みましたら、名前は美彦さんとあって、これじゃ検索をかけてもでてこないはずと
思いました。児童文学の翻訳と作家とありますが、「赤毛のアン」とか「シートン動物
記」を翻訳していますが、どちらも有名なのは別なかたの訳業であるようです。
 小生が思いがけず白柳さんの名前を見いだしたのは、いまから三年前にてにした角川
文庫版「百名山の人」田沢拓也著のなかでです。
これは、深田久弥さんについての評伝でありますが、カバーにはつぎのようなことが
書かれています。
「 名著『日本百名山』を記した作家・登山家の深田久弥には、山を歩き回らずには
いられない理由があった。
 童話作家北畠八穂との出会いを機に、文学活動を開始した深田と八穂との創作の
秘密、愛憎、作家としての挫折、小林秀雄井伏鱒二ら文士たちとの交流など・・」
 深田久弥さんの初期の作品は、北畠さんの手によるもの、または合作というのが、
いまでは定説になっているようですが、脊髄カリエスという病のある北畠さんから、
美人の誉れ高い中村光夫(批評家)の姉との生活へ移り、やがて離婚にいたるのです
が、北畠さんのほうには、甥っ子の友人である18歳年下の白柳美彦さんと暮らす
ようになったのでした。
 白柳さんには、北畠さんとのことを綴った小説「天に向かって笑う」(新潮83年
6月号)があるとのことで、その一節が「百名山の人」にひかれています。
「桜吹雪の午さがり、私は退院した八穂を背負い、一歩一歩坂の小道を登った。八穂も
一人ではいきられぬ病身であったが、わたしも一人では生きられぬ病める心であった。
八穂をこよない指南車とたのみ、ひどい懶でありながら、その人の手足にとなることに
よろこびを感じていた。」
 脊髄カリエスというのは「正岡子規」が患った病気でありますが、薬などがでている
ので、命に関わることは少なくなっていたのでしょうが、それでも肉体に重い障害を
残すことになっていたようです。ちょうど、正岡子規と妹の役割が、反対となった
ような八穂さんと美彦さんの関係であります。
田沢さんは二人のことを、次のように書いています。
「二人が同棲をはじめて数年後、一度、周囲の人が北畠に『入籍したら?』と勧めた
ことがあったという。だが、二人は入籍はしなかった。
 鎌倉山に同居しながら白柳は少年少女小説を発表したり、『シートン動物記』などの
翻訳をしたりしている。だが、ついぞ、文筆家として目立った業績は残していない。」
 「文筆家として目立った業績」といわれると、そのとおりでありましょうが、こう
して40年もたって、むかしに読んだ白柳さんの文章が忘れられないという人間がいる
のも事実でありまして、本日は、そのことをいっておしまいであります。