黒衣の短歌史 2

 中井英夫さんという人は、短歌雑誌の編集者として後世に残る業績を
残しているのです。短歌といえば、結社に加わって、それを発表の場と
して歌人としてメジャーになっていくという時代に、結社によらずに
歌人としてメジャーになる道を切り開こうとした若い人の後押しをした
のです。
「私は昭和24年1月から昭和35年6月までの足かけ12年間、
 短歌研究、日本短歌、短歌 の三誌の編集長をつとめた。年齢にして
26歳から37年までである。これらの雑誌はいわゆる歌壇の総合雑誌
あって、『アララギ』などの歌人が主宰する結社雑誌とは違う物だが、
その間の私は歌舞伎の黒衣さながら、つとめて表にでまいとし、本名で
短歌評論を書いたり歌集の月旦をしたりということはなるべく慎んできた。
・・・従ってここに集めた文章は、いわば黒衣の胸中に渦巻く愛憎の思い
であって、それ以上のものではない。地味にうしろに控えながら、私は
心のうちで、激しく短歌を愛し、またそれ以上に現代短歌を憎んだ。
何より少年の目に『赤光』や『桐の花』がもたらしてくれた色彩と夢とが、
戦後の歌壇にはかけらも見あたらず、すべてが一様に灰色の生活短歌、
あくことのない身辺雑詠の繰り返しということが不気味でならなかった
のである。」  

 中井さんの編集者時代のことを、関川夏央さんは、次のように書いて
いました。
「 短歌誌編集者時代の中井英夫は、中城ふみ子寺山修司を世に出し、
 塚本邦雄、葛原妙子を強く推した。また春日井建、浜田到、村木道彦を
 発見したが、彼はその文学への傾きも短歌の好みも、みな母親から受け
 ついだのである。中井英夫は植物学と女性のみを愛した父親を嫌ったが、
 その新人発掘の眼はやはり、植物の『新種をみつけだす』父親ゆずり
 だと杉山正樹は考えた。
  中井英夫には一徹な名人気質のような独占癖があって、新しく発見した
 歌人が、自分の手からはなれて変容することを決して許さなかった。」

 「名人気質のような独占癖」というのはすごいことで、メジャーになり
たければ、いうとおりにすれとでもいわれると、その呪縛から抜けることは
とてもたいへんなことでしたでしょうそういう意味では、中井英夫さんが、
小説の世界にむかったのを歓迎した関係者もいるのでしょう。