年の初めの 9

 斎藤愼爾さんの「永遠の文庫<解説>傑作選」に収録されている中井英夫さんの
「黒鳥譚・青髯公の城」(講談社文庫)の解説を書いている相澤啓三さんのことが気に
なっています。中井英夫さんが亡くなった時のことは、記憶しているのでありますが、
相澤さんが葬儀委員長であったことなど知るはずもなしですし、斎藤愼爾さんによって
中井英夫の文学的同志という関係であることも初めて知りました。
 69年秋に最初に手にした三一書房版「中井英夫作品集」にはさみこまれたしおりで
この方が書かれた文章を眼にしてから40年がたっていました。
 創元ライブラリー版「中井英夫全集」1の解説は相澤啓三さんによるものでありまし
た。このなかに、相澤さんがはじめて中井英夫さんにあったときのことが書かれていま
す。ちなみに中井英夫1922年生まれ、相澤啓三さんは1929年生まれであります。
「私が雑誌編集者中井英夫に出会ったのは1950年12月のこと、中井さんが杉並区西荻窪
の青雲荘で、出版社勤めの田中貞夫さんと共同生活をしていた頃で、私は東大英文科
一年生だった。数ヶ月後にあることを機にして彼等と訣別し、その後は在学中も卒業後
札幌で暮らす間も、彼らのことは強いて忘れようとしていた。1957年頃、六本木の俳優
座の前で田中さんとめぐりあい、市ヶ谷台町の狭い二階家を訪ねたことがあったが、古
新聞を山のように積み上げたなかで、優しそうでいて小動物をいたぶるような態度は
相変わらずで、交わりは復活することなく終った。」
 交わりが復活したのは、1964年6月7日のこととあります。どうして日時が特定できる
かというと、草月ホールで開催のイベントにいったところで再会したからであります。
そのイベントにいったら、中井の顔を見ることになるだろうと思いながら足を運んだと
ありました。
「数日後意を決して札幌時代以後に書いて出版した三点の詩集を送ると中井さんの招き
があって、6月21日夜、下落合の草の生え茂る住まいを訪問して、夜明けまで話こんだ。
私は『虚無への供物』が上梓されたことさえ知らなかったが、『そんなあ(バカなこと
が)』と哀れみながら一部を与えられた。24日未明までに読み上げ、昼の仕事をしませ
て、夜、読後感を走り書きして投函、28日にまた招かれて訪問した。・・
1969年三一書房版の一巻本『中井英夫作品集』の栞に『虚無への<書物>』と題して
掲載されたのがその私信である。」
 中井英夫にとっても相澤さんは印象に残る人であったのでしょう。しばらく交流が
途絶えていた時期に書かれた「虚無への供物」の作中人物である氷沼藍司さんには、
相澤啓三さんが投影しているところがありといわれています。
「『アイちゃんは藍ちゃんですか』と、中井さんと私が一緒にいる場で心安く聞く物
がいた。中井さんは神秘めかし、私は即座に否定した。」
 この文庫全集の解説には、「数ヶ月後にあることを機にして彼等と訣別し」た理由も
記されています。生身の中井英夫さんとつきあうというのは相当に大変であったようで
あります。