二十年後も通用する文体

 岩波書店の「図書」9月号にある中井久夫さんの連載をみていました。
今月号のタイトルは「最初の精神医学書翻訳」とありますが、中井さんが
サリヴァンという精神医学者の「現代精神医学の概念」という本を訳した
ときの話です。
 中井さんは当時、統合失調症の回復過程についての著書を書く計画があった
のだそうですが、奥さんからは「あなたが書くものより、そのサリヴァン先生と
やらの本のほうが皆さんに読まれて精神医学をよくするでしょう。」といわれた
のだそうです。
 紆余曲折がありまして、この本を訳することになったときに、版元のみすず
書房の小尾編集長が発した言葉が、本日のタイトルです。
「 二十年は売ってさしあげますから二十年後も通用する文体で書いてください。」
 中井さんは、この言葉のことを、「これは殺し文句である。実際は三十年を越して、
まだ売ってもらっている。・・・編集長が二十年後も通用する文体と言ったのは
大きなヒントだった。問題は内容ではなく、文体だ。サリヴァンはいわゆる難解な
思想の人じゃない。適切な文体を探し求めることが第一の鍵だと私は思った。
文体の探索にはけっきょく二年かかった。」
 このあとに文体探しのあれこれが続くのでありますが、内容ではなく文体で
二年も費やすというのが、詩の翻訳も行う中井さんらしいことであります。