小尾俊人の戦後 3

 みすず書房というのは、片山敏彦さんを精神的な支柱としてロマン・ロラン全集を
刊行するために設立されたといってもいいでしょう。最初の出版物は片山敏彦さんの
「詩心の風光」というもので、このあとに「ロマン・ロラン」のものが続いていきま
す。
 長谷川四郎さんはというと、法政大学で片山敏彦さんに教えを受け、片山さん門下
で先生の留守宅をまもっていた佐々木斐夫さんと近しかったことから、みすず書房
小尾さんとの縁ができたことになります。
 1950年2月シベリアから復員した長谷川四郎さんは、6月から「パスキエ家の記録」
の翻訳に取りかかり、9月には一冊目(全十冊)が刊行されたとあります。
これの誤訳が指摘されたのは、昨日にも言及したとおりです。
新日本文学」1988年夏号 特集「これから長谷川四郎」巻頭の小尾俊人さんの
「一編集者として」という文章には、「パスキエ家の記録」の翻訳をしている四郎さ
んから片山敏彦さんと小尾さんにあてられた書簡が掲載されています。四郎さんの
書簡集はまとめられていませんので、こういうのを目にすることができるだけでも、
この文章は貴重です。(小尾さんが長谷川四郎さんについて書いた文章を、ほかの
ところでも目にしたような記憶があって、あれはどこにあったものかと思うのですが、
どうやら当方の記憶違い?のようです。)
 小尾さんへの手紙(1951年9月12日付)から一部を引用です。
「デュアメルはやはりすこし退屈ですね。併し、結局彼のようなのが、永続きするよう
な気もする。僕にはずいぶんいいフランス語のべんきょうになった。君にはずいぶん
めいわくをかけたでしょう。何しろへまばかりだから。」
 小尾さんの「1951年日記」を見ましたら、9月10日に小尾さんは長谷川四郎さんと
石井新三郎さんと会って、話をしています。その二日後に四郎さんは、小尾さんに手
紙を出すことになるのですから、この時代の交流のありようがうかがえることです。
 小尾さんは狛江の長谷川家を訪問したときのことを日記(10月8日)に記していま
す。
「長谷川さん、石井さん。狛江で、家庭の香り。夜の電気の下で心休み和かになるの
を感ずる。
 雨がふって激しくなった。帰りにはいつものように長谷川さんが駅まで送ってくれ
た。切りのように細やかに、ひそやかに光の筋が落ちに落ちる。電車のサーチライト
に光の線が浮び上ってくる。」
 この時に小尾さんは、結婚を考える女性との恋が進行中なのですが、結局はこれは
実らなかったとあります。