小尾俊人の戦後 4

 「小尾俊人の戦後」から、もっぱら長谷川四郎さんが登場するところを話題として
います。
 先月に長谷川四郎さんの「デルスー時代」のことを話題としていましたが、これは
「デルスー・ウザーラ」を集中的に翻訳していたころのことを作品としたものです。
それでいきますと、シベリアから戻ってきてすぐにありついた仕事は、みすず書房
ら「パスキエ家の記録」の翻訳でありまして、これを訳していたころは「パスキエ
時代」とでもいうものであります。
 長谷川四郎全集の各巻末には作者ノートというのがあって、すべての作者ノートを
まとめて一冊にしたのが犀の本「文学的回想」となります。

文学的回想 (犀の本)

文学的回想 (犀の本)

 作者ノート2回目の書き出しは、次のようなものです。
「今井富士雄君は私がデュアメルの『パスキエ家の記録』を翻訳した時に誤訳を指摘
されたこと、それから『自分は語学は出来ないのだよ。ただ、これだけ翻訳を続けて
いたら段段と分かるようになったよ』と語ったころを書いているが、これはまったく
そのとおりである。・・
 辻潤はえらい文学者で氏とならんで立とうなどと、私は考えないが、こと翻訳にかん
しては似ているようにも思う。辻潤も多くの、それもきわめてむずかしい原文の翻訳を
したが氏もまた言うだろう。『自分は語学は出来ないのだよ。ただ、これだけ翻訳を
続けていたら段段と分かるようになったよ』と。」
 四郎さんどのくらいフランス語ができたのかはわかりませんが、とにかく「来る日
も来る日も、机の前に腰を据えて翻訳に取り組んだ」とのことで、足かけ三年(実質
まる二年)で全十巻四千枚以上の翻訳を完了したのだそうです。
 四郎さんのファンであります当方も『パスキエ家の記録』全巻を揃えるには至らず
で、わずか一冊の端本を購入したのみです。

 裸本で、状態もよろしくないものですが、この本の雰囲気は伝わってくるでしょう
か。
 「パスキエ家の記録」の最終巻に寄せた四郎さんの文章が、全集第二巻に収録され
ています。これの全文を、以下に掲載してみることにします。
「これで『パスキエ家の記録』全十巻の翻訳をおわる。大いに努力したつもりである
が、意に満たざるところが多い。フランス語は豊かな言葉である。日本語も豊かな言葉
である。貧弱なのは僕である。将来もし改訂版を出すような幸運に恵まれたなら推敲
修正したいと思っている。親切なる読者にして、気のついたところをお教え下さるなら
ば、まことに幸甚です。
 僕が本書をどうやら訳すことのできたのは、佐々木斐夫氏、小尾俊人氏の友情のおか
げである。また片山敏彦氏からはいろいろ教えて貰った。また古き友吉田秀和氏はそれ
となく僕をはげましてくれた。またみすず書房の方々、特に青木やよひさん、富永博子
さんには大へん世話になった。僕は親愛なる読者たちに、この翻訳は以上の方々のご助
力に負うものであることをお伝えし、ここに感謝の意を表して、お別れをしたいと思う。
では、お元気で、よいお仕事を。」
 「パスキエ家の記録」の最終巻がでたのは1952年9月で、その前月に「シベリア物
語」が筑摩書房から刊行となっています。