小尾俊人の戦後 6

 長谷川四郎さんがみすず書房から刊行した本のあとがきに小尾さんへの謝辞を記した
ものはないと昨日に記しました。(ただし「パスキエ家の記録」最終刊を除く)
 四郎さんはどこかで記しているのではないかと、全集の著者ノートをまとめた文学
的回想」を開いてみましたら、三巻目著者ノートに小尾さんの名前が登場することが
わかりました。
 小尾さんについてのくだりを引用するまえに、「パスキエ家の記録」を翻訳してい
たころのことについて四郎さんが書いているところです。
「一日24時間を8時間ずつの三つにわけ、8時間を労働、8時間を遊びや食事の支度、8時
間を睡眠の時間とすれば、このうちの労働の8時間を私は、あの頃、さらに三つにわけて
いた。パスキエを翻訳する時間、『シベリア物語』や『鶴』を書く時間。そして『無名
氏の手記』を書く時間の三つである。
『パスキエ家の記録』は十九世紀から二十世紀にかけてのパリの一小市民の物語である。
『シベリア物語』や『鶴』は私のすぐ背後に過ぎ去ったばかりの体験談である。いずれ
にせよ上記の三つは過去を言葉で現在に再現しようとすることだった。そこへいくと
『無名氏の手記』は、戦後ある一定の時間帯において、復員してきたばかりで、多摩川
べりに住んでいた一無名氏が、日々生起することどもをその場で書きとめておこうと試
みたものだ。」
  四郎さんのパスキエ家の翻訳に取り組んでいた時のことは数日前に架空インタ
ビューから引用していますが、それでは午前は翻訳、午後は創作とあったのが、さらに
くわしくなって、午後からの創作は「シベリアもの」と「無名氏」ものが並行であった
とわかります。
 「鶴」につづいての作品集「無名氏の手記」もみすず書房からでることになるのです
が、これの背景を、著者ノートから引用です。
「無名氏というのはチェーホフの小説から思いついたものだが、・・・・じっさい言う
と、あのころ、日記や手記をつけていたわけではなくて、ただ、『新日本文学』や
近代文学』に『丸田の手記』とか『架空日記』とか題して短い文章を発表していた。
これが目にとまったかどうか、みすず書房小尾俊人君がなにか一冊の小説集を出さな
いかと申し出てくれたので、渡りに船と、それらをまとめて、さらに書き加えて二百枚
くらいの一冊にし、題して『無名氏の手記』とすることにしたのだが、結果はさっぱり
売れず、みすず書房には損をかけることになった。いま読みかえしてみると売れなかっ
たのは当然のむくいだったことがよくわかる。」
 「シベリア物語」とくらべたときに、「無名氏の手記」のほうがずっとわかりにくい
ものとなっていますが、四郎さんはこの著者ノートで、この作品を読むためにはその
作品の背景を記した「地図「ならぬ「時図」が必要であると書いています。
メーデー事件、鹿地亘事件、松川事件二重橋事件といっても知らない人のほうが
多いだろう。」と四郎さんが書いたのは、今から40年も前のことで、いまはさらにで
あります。