旅行の準備

 高校のクラス会では四年に一度オリンピック開催の年に集まりをすることに

しているのですが、皆がちょうど古希をむかえることになる2020年は、

修学旅行と称して、高校のときの修学旅行で利用した宿を再訪しようというこ

とになりました。

 その前年くらいから予定をたてていたのですが、これがちょうどコロナ期と

なってしまい開催できず、できるまで延期となっていました。いつになったら

できるかねと様子をみておりましたが、今年秋にはできるのではないかと計画

をして、いよいよそれが明日からとなりです。

 目的地は箱根ということになり、修学旅行で利用した宿に泊まって宴会をす

るということで、幸いにお天気は良さそうで、一足はやく東京で待機している

お仲間からはとてもあったかでと連絡がはいっています。

 それにしても高校を卒業して半世紀をすぎて、同じクラスで10人ほどが箱根

に集まるのですから、これはなかなか珍しいことであります。田舎の普通の

公立高校で昔の国立一期校に進学した人から就職した人までが一緒のクラスで

学んだというのは、いまだ戦後のなごりが残っていた時代でありましょうか。

 明日からの旅に持参する本は、何がいいだろうかと考えることです。読み

やすいものにするか、それとも読み継いでいるプルーストがいいのか、ちょっ

と迷うことであります。

 候補は、次の二冊ですね。

 

「職人学」に戻ることに

 小関智弘さんの「職人学」をブックオフで購入して、ここから話題をいただ

こうと思いながら、脱線につぐ脱線でありました。

 この本は、日本の優秀な職人さんたちのことを紹介しているのですが、その

人たちの持っているスキルを、機械でできるようにするというの技術革新の時代

に、さらにその先を行くスーパー職人でありますね。

 小関さんは、次のように書いています。

「技術が進歩すれば技能は要らなくなる、と考えるのは誤りである。もしそう

考える技術者がいるなら、それは技術者の奢りである、技能よりも技術のほうが

上だと考えるのも、技術者の奢りである。」

 と行った後に、日立のなかにたった一人しかいない超絶技巧の職人さんを紹介

しています。それは人工衛星で使う送信用のアンテナを作るときの部品である

ワイヤーを設計図とおりに通すという技術ですが、これができるのは日立に一人

しかいなくて、替えのきかない存在なのだそうです。

 このように紹介してから、次のように締めています。

「技術者がどんなすぐれた設計をしても、それだけではモノにならない。モノと

して存在するためには、技能者の持つ力量が不可欠である。」

 最近は、どうなのでありましょう。

 そもそも小関さんの「職人学」に手が伸びたのは、最近の朝ドラのせいでもあり

ますね。朝ドラは東大阪の町工場を経営する一家の娘さんがヒロインでありますが、

父親が経営するネジ工場も主要な舞台となっています。

 ちょうど「職人学」にも、「美しいネジを作る」ということでネジを作る会社を

紹介していました。テレビドラマの会社も、このような「美しいネジを作る」を

目標にしているのでありましょう。

「ネジの機能としては、赤外線検査装置を無事に通過しているのだから、問題は

ない。しかし、ネジの出来があまりよくはない。そんなときひょっと首を傾げて、

機械を調整するか、しないか、その道五十年の職人の目は、それを見落とさない。

その厳しい目が、美しいネジを心掛けさせ、百万個に一個の不良品でも許さない。」

 美しいネジを作る職人は妥協をしないとあります、職人は頑固でなくてはだめな

ようです。

 

昨日に続いて旋盤工・作家

 昨日に引き続きで、旋盤工・作家 小関智弘さんを話題にすることになりです。

とはいっても小関さんを知ったのは、小沢信男さん経由であることもありまして、

同時に小沢さんが書いた小関さんについての文章を見たりもしています。

 昨日は「本の立ち話」に掲載の文章でありましたが、本日は「東京百景」に収録

されている文章などをのぞいていました。(「東京百景」の「大森三代」という

文章は、小沢さんのちくま文庫「ぼくの東京全集」にも採録されています。)

 その前にですが、小沢さんは小関さんを旋盤工・作家としていることからも、

労働者文学推進の一人と位置付けているわけです。

「本の立ち話」には、「労働者文学の熟成」という文章がありまして、それは

清水克二さんという労働者作家の「私の東京案内」に寄せた文章ですが、次のよ

うにあるのですね。

「『私の東京案内』は、やはり戦後がもたらした文学の豊饒の一例ではないか。

町工場の旋盤工の一家三代を語った小関智弘『大森界隈職人往来』とか、親譲り

のペンキ職人の哀歓をつづる九鬼高治『北十間川夜話』『雨季茫茫』などをはじ

めとして、働く者の眼で大東京の諸相を描いた作品のかずかずが、なつかしくも

浮かんでまいります。・・いちいち名はあげないが、労働者の書き手がこんなに

も叢生した時代が、この国の文学史上に、かってあったろうか。」

 小沢さん自身は、労働者文学者ではなかったのですが、新日本文学会の事務局

や文学学校で、文学サークルを見てきた立場からの発言でありますね。

 ここで目にとまったのは九鬼高治さんのお名前であります。

つい先日に西村賢太さんの「雨滴は続く」を話題にしたときに、西村さんが参加

していた同人誌のことに言及し、その主宰者である九鬼高治さんにも触れており

ました。

vzf12576.hatenablog.com 小沢さんは、九鬼高治さんのことを尊敬をこめて紹介をしているのであります

が、西村賢太さんからすると九鬼さんの文学感に共感して同人に加わったわけで

はないのですね。

 次は、西村さんの「雨滴は続く」からの引用であります。

「尤も貫多は、先述の如くこの同人雑誌に入ったのは、何もこの主宰者の作に共

鳴を覚えての、と云う要素は一片もない。この人の作も正統派と云うか、いかに

も王道スタイルの私小説であり、そのうち幾つかは彼も読んでいて作中世界に没

入しながらページを繰った作もあるにはあった。けれど別段この人に、私小説

作法については何一つ尋ねてみようと云う気は起こらない。」

 まったくもう身も蓋もない言い方でありまして、これで世の中は通らないよと、

ほとんどの常識人は思ってしまうことです。 

 そういえば、西村さんは地道に働くということをしない人でありました。

労働者文学なんてという世代ではありますね。

本の立ち話

本の立ち話

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旋盤工・作家 小関智弘さん

 先日にブックオフに観光地のガイドブックを買いにでかけました。以前にその

店にあったのを確認しておりました。最近は観光地のガイドブックなどを買い求め

る人は少なくなっていて、しかも5年ほど前のものなどは誰も手をだしませんので、

いつまでも残っていて、無事に入手することができました。

 これだけというのもさびしいので、あと一冊、帯に大きく内橋克人氏推薦とある

本を買うことにしました。小関智弘さんのものであります。

 小関さんは文筆家でありますが、2002年まで町工場で働く職人さんであり

ました。この本は2003年に刊行となりましたので、ちょうど70歳になった

年で、職人仕事から引退してすぐの仕事でありました。

 そういえば、最近は小関さんの名前を目にすることがなくなったことでして、

これを機に小関さんのことを話題にですね。

 小関さんの作品には、NHKでドラマ化されたものもありまして、町工場の職人

の人間模様を描くものとして評判の高いものでありました。検索をかけてみまし

たら1984年「ドラマ人間模様 羽田裏地図」という作品で、池端俊策脚本で、

緒形拳藤村志保田村高廣でありますので、悪かろうはずがありません

 ドラマの原作というだけではなく、小関さんは小沢信男さんと親和性が高く、

小沢さんは小関さんの文庫本に解説などを寄せています。そんなこともあって、

当方も小関さんに関心を抱くようになったわけです。

 小沢さんは、小関さんについて何本か書いているのですが、すぐに取り出すこと

ができたのは「本の立ち話」で、それに収録の「旋盤工・作家 小関智弘」という

のがありました。

 これは小関さんの「おんなたちの町工場」(ちくま文庫)に寄せたものです。

「旋盤工にして作家。鉄を削り、文を練って幾十年。本書は、そういう人物が五十

代の終わりに取り組んだ仕事です。・・・」

 ということで、小沢さんは小関さんのことを「旋盤工・作家」と呼ぶことを提案

します。

小関智弘をただの作家としてかたづけたなら、なにか忘れものをしたようで、ご

当人も落ち着かないかもしれません。そこで、こうしてみます。『旋盤工・作家』

 なぁんだナカグロ一つの違いかと、というなかれ。この肩書が担えるのは、世界

は知らず、日本では、どうやらこの人ぐらいなのですね。」

 そうなのですよね。小関さんは旋盤工としても、すぐれた腕の持ち主であったの

ですよ。文章を書いても、旋盤を操作しても一流という、このような二刀流という

のを、もっと日本は大切にしなくてはいけないというのが、小沢さんのメッセージ

でありました。

そのとおりだが、それはないね

 これくらいあっという間に読んでしまえよなと、朝から西村賢太さんの「雨滴

は続く」を手にすることにです。すこし読んだらトレーニングに行くことになり、

戻って何ページが読んだところで、買い物へと出かけることになって、さっぱり

ページが稼ぐことができないことです。

 なんとか、本日中にあと100ページくらは読みたいのですが、ちょっと難し

いかな。

 西村さんの本を読んでいると、ほんとにそのとおりだよなと思うくだりがあち

こちにありで、同感しながら読みすすみます。たとえば、次のようなところです。

「現在流行っている書き手だって、今は持てはやされていようと、その作が十年

後もそのまま通用するわけでもないことは明白なところだ。それは過去の、明治

からの小説史が如実に、歴然と物語ってもいる。

 だから、源氏斯界を席巻している”ケータイ小説”なぞと云うものも、あと十年の

のちには誰も読みもしなければ評価もしないのは、もう分かりきったことである。」

 これに続いて西村さんは「一篇も読んだことがないし、これからも読むつもりは

ない。」と続けるのでありますが、これは当方も同感でありまして、西村さんは

いたってまっとうな考えの人であるなと思うのですね。

 そうでありますのに、そのすぐあとには、それはないよなというシーンが現れる

のでありますね。これまで読んでいるところでは編集者さんへの罵詈雑言は発せら

れていないのですが、日頃から世話になっている古書店主には、ひどい物言いで

あります。そのことは、自分でも分かっているようなのですが、とにかく自制がき

かないのでありますね。

「あらゆる点において新川は貫多にとっての一種の恩人ではあるのだが、根がひた

すら馬鹿で忘恩体質にできている彼は、そんな新川の善良さをいいことに、これに

未だ大いに悪甘えしながら、半ば悪フザケ的にぞんざいな口調で接してやるのを自

ら面白がっているうちには、いつかそれがすっかり常態化していってしまったので

ある。」

 そういえば、「文學界」が西村さんの追悼特集を掲載したときに、この古書店

さんが登場して、談話をのせていましたが、結局、西村さんの蔵書はこの古書店

が処分にあたることになったとありました。

 

本の入れ替えで

 月がかわって図書館から借りている本の入れ替えとなりです。借りているもの

の一部を返却して、新しいものを借りることになりです。

 先日に新聞で見た本が入っているかなと検索をかけたら、入っていたので、そ

れを借りることができました。これはなんとか読まなくてはです。

多和田葉子さんの新作「太陽諸島」となります。帯には「連作長編三部作」の完

結とありました。

 日本はどうなってしまうのかなと、先行きに不安を感じましたら、多和田ワール

ドがあるではないか、そこで生きていけばいいのだと思うことです。

 これまでの二冊も図書館から借りて目を通しました。ほとんど忘れてしまって

いるのですが、なかなか頭から読み返すということができないことです。

一作目は文庫にもなっているのですがね。この三部作は、たぶん多和田さんの代表

作といってもいい連作長編(サーガとふりがなにありです。)でしょう。

 もう一冊、新規で借りたのは、みすず「大人の本棚」からでたものの新装版。

 「大人の本棚」のラインナップで、新装版ででたということは、この一冊は

そこそこ売れたものなのですね。小沼丹さんの「小さな手袋」は文芸文庫にも

入っていますが、これとみすずからでた「珈琲挽き」をあわせて撰したのが、こ

の一冊です。

 当方は、どちらも持っているのに、なかなか読むことができていないので、

新装版を手にしたのを機に読んでみることにしましょうです。

 これの編集は庄野潤三さんで、巻末に庄野さんによる「なつかしい思い出」と

いうエッセイがついています。

 ゆったりとした気分になりたければ、小沼さんの本を読みましょうであります

が、イラついていたりしたら、なかなか小沼さんの世界に入っていけないかもで

す。イラついているときに読んだら、すっかり気持ちが落ち着くなんてことはな

いかな。

 そういえば、先月は小沼さんの文庫本がでたのでした。

 

曇天の文化の日

 祝日となる「文化の日」は、お天気がよろしいことで知られる特異日となり

ますが、本日の当地は曇天で、時に雨となりました。

 戦後に生まれたほとんどの祝日は月曜日に動いてしまっていて、何に由来する

お休みであるのかわからなくなっていますが、戦前に祝日のルーツをもっている

文化の日」は、11月3日から移動することはなしであります。

 そのうち、この「文化の日」を戦前に呼ばれていたような祝日に戻したいと

思っている勢力がいますので、そうした人たちは11月3日にこだわりをもっている

のでありましょうね。11月3日は文化の日、なんのこっちゃなんて思ってはいけな

いのですよ。

 戦後に生まれたり、改称された祝日の名前は、それなりに戦後の雰囲気を伝え

るものでありますが、いつの間にか祝日として祝おうという気持ちは薄れていて、

復古主義の人たちにやられてしまうのかな。

 本日は「文化の日」にちなんでゆっくりと自宅で本を読んでおりましたと記し

たいところでありますが、そんなことはなくて、トレーニングにいって、知人の

ところを訪ねておしゃべりをしたりで過ごすことになりました。

 気が付いたら、明日には図書館から借りている本の返却日でありますので、あ

わてて返却する本のチェックをすることにです。なんとかページをめくって本に

風を通さなくてはです。

 薄いブックレットのような「宮本常一ふるさと選集」を手にして、そのなかの

「ある老人の死」という文章を読むことになりです。

「老人が死ぬると小屋はすぐ解かれた。・・ここにこうして書きとめねば誰の記

憶にもとどまらないほど、ひっそりと消えていった人生であった。この人にも語れ

ば語ってきかせるほどのライフ・ヒストリーがあったはずである。それはそのつつ

ましく清潔な晩年がおぼろげながら物語ってくれるのだが、この世に何ものをも

残さなかった。墓すらも建てられはしなかった。

 もの言わぬ自然の中にはこうした人生が埋没しつつ、しかも何事もなかったよう

今日から明日へと時は流れているのである。」