そういう時代だよな

 本日も昨日に引き続きで図書館から借りている「マルクスに凭れて60年」を

読んでいます。

 学生時代のところで印象に残るのは、旧制高校の濃密な人間関係でありまし

て、これはほぼほぼ全部の学生が寮で暮らしていたことと関係があるのでありま

しょう。特にいま読んでいるのは旧制一高でのことですから、右にいっても、左に

進んでも日本の社会を背負ってたつというのが染み付いているようです。(もち

ろんなかには、そういうのになじめずで、途中で旧制高校をやめてしまう人も

いたのですが)

 加藤周一さんの「羊の歌」にも旧制高校でのことがでてきますが、加藤さんと

岡崎さんは年齢が15歳ほども違いますし、加藤さんは都会の人でありましたの

で、加藤さんからは気負いのようなものは、あまり感じられないことです。

 こうした教育を受けた人が、戦後に将来の日本のエリートを育てるということ

で、全寮制の学校を作ろうとするのは、不思議でもなんでもないですね。

 岡崎さんの本で一章をさかれている人に西田信春という北海道出身の方が

います。ほとんど無名の方ですが、当方は若い頃に、この方の追悼集がでたとの

記事を見ておりまして、名前のみ知っておりました。(その昔の古本屋には、この

追悼集がけっこう安価でならんでいました。)

 岡崎さんの紹介では、次のようになります。

「一高の寮では入学当初の一年間だけは学校側で編成した各部類の生徒約

十人を一組として一室に住まわせることになっていた。私が配属された西寮一番

室には、私の属した文化甲類四人、・・文甲の四人のなかに西田信春がいた。

北海道は新十津川の生まれで、札幌中学の出身だった。明治22年、奈良県十津

川の氾濫で村の大部分約五百戸が移住して生まれたのが新十津川村で、西田

の父はその村長だった。」

 この西田さんは、在学中から左翼運動に身を投じて、若くして拘束されて亡くな

るのでありますが、彼のことを後世に伝えていかなくてはと奔走したのが石堂清倫

中野重治原泉でありまして、1970年に「書簡・追悼」集がだされたのでありま

す。

 それから50年も経過して、この本と西田さんに言及した岡崎さんの文章に出会う

ことになりました。岡崎さんは、このように書いています。

「西田信春は、こんな私が惚れっ放しで飽きなかった数少ない友人の一人である。

・・とにかくいつ思い出してもただ懐かしさだけを覚える友が生涯に一人でもいたと

いうことで十分なのである。」

 西田さんは高校ではボート部にはいり、その関係で大槻文平とも密な付き合い

となるのだそうです。その大槻さんが、西田の追悼集に寄稿しているとありまして、

これにはびっくりであります。

 次は、その大槻さんの文章からの引用です。(引用の引用です)

「大学を出て私は三菱鉱業K・Kに入社し北海道の三菱美唄炭鉱で炭鉱社会の

近代化の為に若い情熱を燃やしていた。忘れもしない昭和四年二月、日暮れの

早い北海道の暗い雪の中を多くの同僚と一列に並んで帰宅の途中、突然『オイ

大槻』という声に驚かされた。それはまぎれもない西田の声であった。彼は一列

縦隊で歩いている中から僕の声を聞きわけて呼びかけたのだった。雪の降りしき

る中に彼は鶏を一羽持って立っていた。その夜は久し振りに私は彼と鶏の肉を

さかなに酒をくみかわして久闊を叙した。」

 岡崎さんは、この大槻さんの文章は昭和45年のものと記しています。

昭和45年といえば、大槻文平さんは三菱鉱業の社長をつとめていて、それから

まもなく日経連の会長となるわけですから、立場は違うのですが、なるほどの人物

でありますね。