フライングスタートで

 すべての日本人が楽しみにしているらしい東京オリンピックはいよいよ明日

が開会式だそうです。とはいっても昨日くらいから競技は始まっているようで、

テレビの番組欄にはオリンピック関係がずらっとならんでいまして、それを消し

ていきましたら、どのようなものが残るのでありましょう。

 ことしの東京大会の日本国首相は、1948年生まれで72歳ということですから

ら、当方の兄と同学年でありまして、64年の東京大会のときには高校生であっ

たのですね。当方の兄は、聖火リレーとかの伴走者にあたりまして、当方は

それを見物にいったことがありました。

 たしかオリンピック開会式もTVで見物したはずですが、そのときに見たの

は白黒テレビで、そのあとに記録映像でみるのはカラーで放送となったもの

ですから、当方の記憶は、ずいぶんとあとになってからに見たもので形成され

ているようです。

 いまどきの小学生たちは、開会式などを興味をもって見るのでありましょう

かな。

 そういえば、2020年の大会が決定してから、その開会式には誰それがプロ

デュースするとか、音楽はだれがやるとか話題になっていたようですが、その

頃に名前があがっていた人たちは、皆さんどうなってしまったのでしょう。

一年延期になったことで、日程があわなくなったのか、それとも方針があわな

くなったのかなです。

 ダンスパートを担当するといわれていた振り付けの方は、いろいろと企画を

固めていたのでしょうし、大物ミュージシャンも制作していたのでしょうね。

 ダンスの方が作られたものは、NHKTVの「お源さんと一緒」で披露された

のが、そのプランの一部であったのかなと思ったりですが、2020年大会のた

めに用意されて日の目を見ることがなかった、あれこれのプランを実際に演じ

て見てみたいものです。

 結局のところ2020年大会というのは中止になったようなものでありまして、

ザハ・ハディドのスタジアム、デザイナーさんのロゴマーク、開会式の演出

プランなど(いっそのことご本人が希望していた横綱の土俵入りも)を「幻の

東京大会2020展」としてやってもらいたいものです。

どんどん早くなるか

 本日に野暮用から戻りましたら、「ちくま」8月号が届いていました。

当方が購読している出版社のPR誌では、「ちくま」が一番はやくに届くので

ありますが、以前は25日くらいに届いていたように思います。

 それはさて、「ちくま」では頭から女性の書いたものに目が行くことになり

です。

 冒頭におかれたのは、金井美恵子さんの「重箱のすみから」11回目ですし、

続いては嵯峨景子さんが書く氷室冴子さんの文庫本「いっぱしの女」について

のものでありました。

 嵯峨さんといえば、氷室さんの専門家でありますからね。この文章を読みま

すと「いっぱしの女」を読んでみようかという気になります。

嵯峨さんは「回顧ではなく、きわめて現在形のメッセージを伝える『いっぱし

女』は、氷室冴子に初めてふれる人に最適の入門書である。フェミニズムへの

関心が高まっている今だからこそ、鋭い問題提起にあふれた氷室の言葉を、多く

の人に知ってほしい。」と書いています。 

  このように記してから、「いっぱしの女」はその昔に「ちくま」に連載され

たものをまとめたものではなかったかと思いました。

 このほかには、10年をこえて連載が続いている「世の中ラボ」は斎藤美奈子

さんが健在で、今月は「コロナ小説」を取り上げていて、その最初に金原ひとみ

さんの「アンソーシャルディスタンス」が話題となっています。

 そして最後のほうでは、これまでほとんど気にもならなかった最果タヒさんの

エッセイが「AJICOのライブに行った」というもので、つい最近にAJICOを知っ

た当方は、AJICOにぞっこんの最果さんの文章を興味を持ってみることになり

です。

 どの女性たちもパワーがあることです。

 金井さんなんて、「ところで、コロナ以後の未曾有の状況のなかで、ハイな

調子の言説が目立つ学者、藤原辰史」と書くのでありますから、怖いものなし

でありますね。

 

ガンコと難解 2

 橋本治さんは小林信彦さんの書くものは、読者に難解であるというのです

が、小林さんは橋本治さんのことをガンコと表現するのですが、それは次の

ように書かれています。

 小林さんの「本は寝ころんで」の「橋本治の仕事」からです。

橋本治の時評は<目の見えすぎる人の不幸>を感じさせる。

 だって、この時評(ナインティーズに収録のもの)は小学館から出ている

SAPIO」にのったのである。こんな本質的なことをいっても「SAPIO」の大半

の読者にはわからないのではないか。

『どうだっていいよ、いま、コレを言っておきたいんだから』

と、(おそらく)橋本治は開き直っている。

 とにかく、橋本治はガンコである。ガンコというと下に老人とつきそうだが、

この人は<ガンコな少年>である。」

 1991年の週刊文春コラムでありまして、これがこの先に「本音を申せば」に

つながっていくのでありますが、この時の小林さんは59歳で、橋本さんは43歳

でありますか。

 この時代の橋本さんは「SAPIO」にコラムを書いていたのですね。この雑誌は

ほとんど手にしたことはないはずで、小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言

が連載されていたと思いますが、小林よしのりさんの世界と、橋本治さんの世界

はずいぶん違いますよね。

 このような過程を経て、橋本さんは、早すぎる晩年の当方も知る橋本さんに

なったのでありますか。それにしても、当方ももうすこし早くに橋本さんに

親しんでいればよかったことと思うことであります。

  

 

ガンコと難解

 橋本治さんは、1985年に「小林信彦はどうして難解か」という文章を書いて

いるのですが、これを北村薫さんが「波」7月号で取り上げているというのが

話の発端です。

 85年の「小林信彦さんの難解さ」というのは、それから36年も経ちましたら

さらにでありますね。橋本さんがいうところの「小林さんの難解さ」というのは、

次のようなところだそうです。

小林信彦氏ほど、読むに際して膨大な教養を必要とする作家はいない筈である。

そしてその膨大さが並のものではないというのは、この人が、その膨大な教養を、

一人で作ってしまったからである。・・・

 小林信彦氏の中で、そういうことは膨大に存在するのである。そして膨大に存

在するそういうことは、どれもこれも、この日本という国の中では既知のことな

のである。かってそういうものは存在していて、そういうものは重要だったから、

教養となりえてしまうのである。・・・

 何故か、日本人作家の小林信彦氏は、日本人読者を、必ず微妙なところで外人

にしてしまうのである。小林信彦が難解だというのはそういうところだ」

 小林信彦さんが、これくらいは知っていてほしいなと思うことを、基礎に据え

てコラムを書いているとしましたら、その思いと現実の読者の間の教養の差は

拡大するばかりでありまして、ますます難解になっているのでしょうね。

 この橋本さんのコラムを受けて、1991年9月の「週刊文春」のコラム「読書

日記」で、小林信彦さんは「橋本治の仕事」というのを書くことになります。

  そのコラムは、「本は寝ころんで」に収録されています。

 

まったくうかつなことで

 先日に読んだもののなかに橋本治さんのコラム「小林信彦はどうして難解か」

に言及しているものがありました。これは河出文庫に収録されているともあって、

この文庫は持っているぞと思ったのですが、この文章をどこで読んだのか思い

だせずであります。

 まったくもうと思って、7月の初めころに手にしたPR誌などをチェックしてみ

ましたら、新潮「波」7月号 北村薫さんの「本の小説」にありました。

ごていねいに、当方はそのことを6月30日に記しているのですから、当方のもの

忘れが進んでいるので、このブログは自分にとって意味があるということを痛感

することであります。

 この「小林信彦はどうして難解か」が収録されている河出文庫はめでたく物置

からとりだしてくることができました。 

  元版は1985年の冬樹社からでた書下ろしコラムとあります。当方は1991年に

文庫になって買いました。とはいってもほとんど読むことはなしで、河出文庫

コラム集は何冊か買って積んでおりました。

 橋本治さんが東京大学在学中に学園祭のポスターを手掛けたことで名前が知ら

れるようになり、その後「桃尻娘」という小説を発表し、それは日活で映画にも

なりました。

 これが当方の橋本さんのイメージでサブカルのライター・小説家というのが

立ち位置でありました。そのあとには編み物の本なども出しましたから、とにか

く器用な人だなと思いました。

 橋本さんのファンでありましたのは、当方の4歳下の弟でありまして、かれは

高校時代にドロップアウトをするという親からしますと、ちょっと困った子で

ありましたが、彼から橋本さんの「桃尻娘」以降のものを勧められました。

それにしても、橋本さんが後年になって、このような評価を受ける人になると

は、1991年頃には思わなかったことです。 

 

今年初めて扇風機

 本日は朝からお天気がよろしでありました。昨日までの予報では、最高気温

が27度まであがるということで、これはことし初めての夏日であるかなです。

なんといっても昨日の最高気温は21度でありますからね。

 午前はジムへといって汗を流し、お昼からはすこし庭仕事と思っておりまし

たが、これがお天気良すぎで、すこし様子をみることになりました。結局は

夕方近くになって、雨にあたってひどいことになっていたバラの花を落とす

ことができました。すこし大きい目のふくろに一つですが、それでもまだまだ

花がついていて、もすこし楽しむことができそうです。

 あれこれとありまして、本日もこれまでのところ本をほとんど読むことがで

きておりません。足の確保で外出したおりに、すこし待ち時間が発生し、その

ときに開いておりましたのは、小林勇さんの「惜櫟荘主人」でありました。

これまでのところ手にした本はこれだけでありますか。

 「一つの岩波茂雄伝」という副題がある本ですが、著者の小林さんが岩波書

店で世話になるところから、一年ごとに章立てされていて、岩波茂雄のこと、

書店の事業のこと、自分のことといろいろな話題が盛り込まれて飽きることが

ありません。

 昭和9(1934)年には、次のようにありました。

「1月8日附の『やまと新聞』は『日本資本主義発達史講座』をめぐって『合法の

仮面の下に党資金獲得の陰謀』という見出しで、この出版が国賊的行為だと難じ、

岩波書店主も近く召喚されるだろうという記事を大きく出した。・・

 このころから、簑田胸喜、三井甲之等が『原理日本』或いは彼らに関係のある

新聞等で岩波書店を露骨に攻撃し出していた。」

 簑田胸喜さんは、敗戦後の昭和21(1946)年1月30日に故郷の熊本で自死した

のだそうですが、それを知った岩波茂雄は「それでは蓑田は本物であったか」と

もらして、遺族にお見舞いを送ったという逸話が残っております。

 そして岩波茂雄はその年の4月に亡くなるのでありました。

 

こういう話が好きであり

 野暮用から戻りまして森まゆみさんの「路上のポルトレ 憶いだす人びと」

を手にすることになりです。

 森さんは当方よりも少し年下でありますが、すでにベテランで当方には貴重な

文筆家であります。好奇心が旺盛で、幅広い話題の著作を残していますが、その

ような著作のためには取材が欠かせなく、そうした活動のなかで出会った人々

についての肖像スケッチとなりますね。

 取材にでかけた先で、出会った人と話をしていましたら、別の著作でテーマに

取り上げた人物の縁者であったなんてことがでていて、こういうたまたまの出会い

というのは楽しいことです。

 当方は、これまでたまたま話をした人が、どなたかの縁者で、奇遇でありますね

なんて話をしたことが、ほとんどないこともあって、このような話は楽しくて、好

きであります。

 森さんが語る、次のような話です。

感染症研究者の知人は、ある病院のロビーで女性の患者さんと話が弾んだ。『あ

ヴェネツィアの島が感染症の患者を隔離する島だったことを詳しく話してくださっ

たの、ただものではなかった』と言うのを聞いて、まさか新宿の国際医療センター

じゃないでしょうね、というとまさにそこだという。それは須賀敦子といって有名

なイタリア文学者よ、現代史の研究者で翻訳も随筆もすばらしいわ。」

 このときは、森さんが出会ったわけではないのですが、どこかで隣り合わせた

人と話をして、その人が「ただものではない」なんてことはなかなかないことで

す。なんといっても、ふつうは「ただものではない」というよりも、「どうだ、

おれの話は」というような人のほうが多いでありましょうから。

 森さんがボランティアででかけた先で出会った女性は、森鷗外のひ孫さんで

あったとのことで、このことは話をしていたときにわかったということですが、

「鷗外の坂」という本を書いている森さんは、この奇遇に驚いたとのことです。