筑摩から岩波本

 図書館から新刊を借りてくることにです。奥付をみますと今年の4月15日刊と

ありますので、これはずいぶんと早く図書館にはいったことです。

今回借りてきたのは、「岩波書店の時代から」であります。そんな時代があったの

かと思いますが、この本で対談をしているお二人がともに、岩波書店に編集者と

していらした方ですので、その意味での岩波書店の時代ということなのでしょう。

聞き手というかお若い方のお一人は堀切和雅さんで、年長の方は岩波の社長

にもなられた大塚信一さんであります。

 その昔に岩波で山口昌男さんの本を作っていた大塚さんは1939年生まれで

ありますので、もう80代も半ばなのですね。そろそろこうしたものを残さなくては

という年齢でありますか。

 大塚信一さんの本は、何冊か手にしているのですが、この対話で初めて知る

親族についてのくだりを見て、それは知らなんだで驚くことにです。

 最初にでてくるのは、次のところです。

「母親は洋裁を本格的に始めた。函南の集団農場をやっていた伯父の奥さん、

つまり父の姉が目白でクララ洋裁学院というのを経営していて、若い娘だった

ころ母はそこで習っていたんですね。」

 クララ洋裁学院とは、どっかで聞いたことがあるようなです。さて、これはどこ

でだろう。

 それに続いては、自分の「係累の話」を語るところにありました。

「父親の姉のひとりの連れ合い、つまり義理の伯父に矢川徳光という人がいた。

詩人の矢川澄子の父に当たる人だね。戦後、矢川徳光はソヴィエト教育学の

大家になったのだけど、戦時中に何をしていたかというと、教育者として戦争

協力を煽る行動を行っていたらしい。・・・」

 とここまでみて、そうだクララ洋裁学院は小池一子さんの養父母のところで

あったとわかったのであります。

 そうか矢川澄子さんと大塚さんはいとこになるのかということで、手元にある

矢川澄子さんの年譜では一番詳細な「ユリイカ」総特集号を取り出してきて、

矢川さんの母についてのところを見てみることにです。

「母。民子は1903年10月14日、雑司が谷土浦藩士出身でもと日赤医局員、

大隈重信侍医、内閣抄紙部嘱託医だった開業医・大塚信民(1870年生)と、

伊勢山田出身で日本赤十字社の最初期の篤志看護師だった妻・光(旧姓・

植山 1876年生)の二女として生まれる。府立第一高等女学校卒業後、

羽仁もと子が創設した自由学園高等部に学ぶ(第二期生、羽仁説子と同学)。

1927年1月4日、矢川徳光と結婚した。」

 なるほどであります。ここにでてくる大塚信民という方が、大塚信一さんの

おじいさんとなるのでありますね。

 矢川澄子さんの年譜で、母の家系についてのところを、初めてちゃんと読む

ことになりです。クララ洋裁学院は、母民子の姉元子が始めたとありました。

なるほど、大塚信一さんの話とつながることであります。

 大塚さんのここを読んだだけでも得した気分になることです。