当方が心配してどうするでありますが、唐助さんといのは、百鬼園先生の
次男さんであります。「百鬼園戦前・戦中日記」下巻の巻末には、人名の索引
があって、これは簡単な人物紹介もついていますので、マニアにはとっても
ありがたい。
内田唐助さんについては、索引で次のようにあります。
「1917年生まれ、『百鬼園日記帖』『續百鬼園日記帖』の装丁者」
「百鬼園日記帖」の元版というのは見たことがありませんが、1935年刊ですの
で、装丁といっても唐助さん18歳の時であります。
唐助さんは日記上巻に頻出するのですが、下巻は登場回数が減っています。
下巻は1940年からの日記ですので、唐助さんは23歳となっていて、父離れ
していても不思議ではないのですが。
下巻にでてくる唐助さんは、体調がすぐれずでたびたび父親と一緒にかかりつけ
の医師の診察を受けています。昭和16年9月22日にのところには、次のようにあり
です。
「ひる前、みの来。今暁三時半、唐助喀血した由を告ぐ。午過、タクシーにて小林博士
へ寄り、今朝の小日向台町への往診の御礼をのべ、容態をきく。大したことはない
様な話なり。二週間絶対安静。」
上巻では旧制高校の受験に何回か失敗したりで先生を心配させる唐助さんであ
りますが、下巻では体調がよろしくなくて心配をかけています。
先生の長男さんは、早くに亡くなっていることもあって、次男の唐助さんは跡取りで
すからね。
先生の家庭は訳有ですから、家族のことはほとんど話題になることがないのであ
りますね。うんと昔に旺文社からでた「百鬼園写真帖」を見ても、家族写真(清子夫人
が写っている)ものは、二枚しかないですからね。その一枚には母の膝の上に座った
唐助さんが写っていました。大正9年撮影ですから、その時3歳くらいですか。
1984年にでた「写真帖」には、取材協力者一覧というのがありまして、そこには内田
こひ、内田みね、内田安也とあるも、内田唐助さんの名前は見当たらないのでありま
した。