先日に中村稔さんの「回想の伊達得夫」を読んでいましたら、これのあとが
きのところに伊達得夫さんについては、「ユリイカ」に2016年連載した「私が
出会った人々 故旧哀傷」でとりあげた伊達さん三回分とそのほかのものを
あわせて一冊にしたものとあったほか、次のようにありました。
「この連載した回想はかなり旧著『私の昭和史』中の記述と重複しているが、
それはともかくとして、三回書いても私には伊達得夫の人間像を描きだすこと
ができたとは思われなかった。」
そうでありましたか、中村さんの「私の昭和史」には伊達得夫さんに関すると
ころもあったのか。「私の昭和史」は、これまであわせて四冊ほどでていて、最初
の一冊(それこそ「私の昭和史」となっているもの)を買って読んでいるのでした。
それからも「ユリイカ」での連載は続いて、そのつどまとめられて刊行となってい
ました。
普通でありましたら一冊目を読んだら、その続きは惰性で読むのでありますが、
中村さんの場合は、あまりにも経歴が立派すぎて、ちょっと腰が引けてしまったと
ころがあります。
「私の昭和史 戦後編」が刊行となったのは2008年10月でありまして、当時
はいまだフルタイムで働いている時で、余裕がなかったという事情もありました。
この時期になって戦中戦後のことに関心がおこっていることもあって、こんどは
ネットで安価な古本を購入することになりました。
注文していた二冊が本日に届きました。上巻の書き出しは次のようになって
いました。
「昭和20年8月16日、私たち一家は上野駅から父の任地青森に向けて出発し
た。・・・大宮からわざわざ上野まで出たのは、大宮から乗車したのでは空席が
とれないだろうと予測したからであった。」
疎開ではなく、戦後一日目の話であります。なんとか青森にたどり着いたので
すが、住宅事情がよろしくないので、知人のつてで弘前に借家を見つけて、9月
からは弘前で暮らすことになったとあります。
このくだりを見て、弘前に反応であります。先月にお亡くなりになった一人暮ら
しの老婦人の出身は弘前でありました。老婦人は昭和7年生まれでありましたの
で、ちょうど5歳下になりますか。
先日にこの方が亡くなったことを、埼玉にお住まいのその方の古い友人にお知
らせをいたしましたら、古い友人の方からお手紙を頂戴し、そこには戦争中に祖父
母が住む弘前へと疎開して、そこで小学校時代を過ごした時の同級生であって、
戦争が終わってからは埼玉に戻ったので、一緒であったのは疎開の時だけであり
ましたと書かれていました。
戦後の混乱期に弘前で暮らすことになった中村家も、下の弟さんは弘前で旧制
中学に入学することになったとあります。
どこかですれ違うことがあったのかなと思ったりして、急に興味がわくことであり
ます。どのような本であっても、読む時期というものがあるようです。