小尾俊人の戦後 2

 みすず書房創立70年記念「小尾俊人の戦後」を手にしています。

 この本を手にして、もっぱら長谷川四郎さんの名前がでてくるところを追っている
のですが、この読み方は、ちょっとマニアックでありますので、すこしこの本の紹介
を。
 前書きからのいただきですが、この本は、次の3つの章からなっています。これは
いずれも宮田昇さんがお書きになったものです。
 第一章 諏訪紀行 ルーツを訪ねて
 第二章 小尾俊人の戦後 塩名田から「夜と霧」まで
 第三章 出版者小尾俊人の思い出
 付録  小尾俊人の遺した文章から
     1 日記「1951年」
     2 月刊「みすず」編集後記
 「諏訪紀行」の元となったのは「みすず」に連載されていたものです。第二、三章
はともに書きおろしとあります。みすず書房は、あまりその会社の成り立ちについて
記されたものがないこともあって、どちらも興味深いものです。(いまだにほとんど
読むことができていないのですが、昔の本の奥付に名前があった北野民夫さんという
方は、そういうことで、みすずの社長になったのかというようなことがわかります。)
 一番興味深いのは「1951年」日記でありまして、その時代と29歳の編集者の仕事と
思索・悩みが綴られています。もちろん発表することを前提とはしていませんので、
それなりになまなましいところもありです。 
 ということで、日記に登場する長谷川四郎さんですが、小尾さんの評価は極めて高い
のであります。片山敏彦スクールの一員として四郎さんは、小尾さんと出会い、みすず
書房から「パスキエ家の記録」の翻訳をだすことになります。これが50年9月から刊行
となって完結は52年10月ですから、ちょうど「1951年日記」の時期は、四郎さんが翻
訳を行っていた時期と重なります。
 長谷川四郎さんへの福島紀幸さんによる架空インタビュー(河出書房道の手帖「長谷
川四郎」)によりますと、次のようにあります。
荻窪から多摩川べりの狛江に移り、間借りして、女房は働きに出、ぼくは家にいて
翻訳の仕事をするという具合に共稼ぎでやっていたんだ。翻訳の仕事というのは、
ジョルジュ・デュアメルの『パスキエ家の記録』で、これまた佐々木斐夫君の口ききで
みすず書房から出版されることになった。そして、翻訳の仕事が進むにつれ、みすず
書房は毎月1万円ずつ支給してくれた。翻訳するには字引が必要なので、復員手当の
二千円で字引を買ったもんだ。午前中は『パスキエ家の記録』の翻訳で過し、午後は
『シベリア物語』を書くのに当てていたよ。」
 フランス文学が専門でない四郎さんによる翻訳は、専門家たちから攻撃されることに
なりました。これが小尾さんと四郎さんの絆を強めることとなったようです。
 「新日本文学」1988年夏号は特集「これから長谷川四郎」という内容です。小沢信男
さんの責任編集となるものですが、これの巻頭におかれているのが小尾俊人の「一編集
者として」という文章です。小尾さんによる長谷川四郎さんについての文章を掲載する
というのは、さすがであります。