古田晁記念館資料集 4

 古田晁さんは、編集を経験してから出版社をはじめたわけではなく、いきなり出版社
をおこしたことになります。後年においては、もっぱら金の心配をする社主という感じ
になるのですが、創業の頃は、当然のことのように、著者に原稿依頼とか出版について
打ち合わせを行っているのであります。
 古田さんは、ほとんど自ら出版の企画をだすことをなかったようですが、そうした
なかで例外となるのは、柏原さんによると、太宰治との関係においてだそうです。
筑摩書房は、創業した翌年の1941年8月に、早くも太宰治の『千代女』を刊行してい
るから、その接触はかなり早かったと思われる。・・・
太宰に関わる企画については、珍しく臼井は古田から何の相談にも預からなかったと
いうことである。この同じ41年3月、筑摩書房に途中入社した竹之内静雄が、河出書房
にいたとき何回か雑誌に太宰に短編を書いてもらった縁があり、彼のところに転職の
挨拶に行くと、『君は日本一贅沢な本屋に入ったな』といわれたというから、太宰は
もっと早くから古田を知っていたことになる。いずれにせよ会ってまもなくから、
古田は太宰にほれ込んだのである。」
 「日本一贅沢な本屋」というのが、なにをもって発言したのかはわかりませんが、
そのあとには、太宰は古田さんに対して法外な甘えた要求を行い、それを古田さんは
やすやすと聞き入れてしまったのだそうです。
 そういう太宰へのほれこみは、太宰が自殺を図って、その捜索がされている場所での
古田さんの振る舞いや、その後に残された太田靜子さんと治子さん母子に対する接し方
(太田さん母子から古田さんへの手紙でうかがえる)からも見てとることができること
です。