44年前のこと

 「ちくま」二月号に藤森照信さんによる「光を与える人 追悼・赤瀬川原平」という
文章が掲載されています。
 藤森照信さんがデビューしたのは「明治の東京計画」という著作(たしか博士論文が
単行本となったもののはず)によってでありました。建築学科を卒業(小田和正さんと
同級というのは、有名な話)し、大学院は東京大学でありました。
その後は、建築探偵として著名になり、建築家ではあるが、設計には縁がないと思って
いました。
 最初の作品は、藤森さんのふるさとである茅野市に建築された「神長官守矢資料館」
というもので、これは建築探偵の処女作として話題となったものです。
その後、藤森さんは、屋根にタンポポを植えた自邸「タンポポハウス」を設計します。
最初の作品は1991年で、自邸は1995年ですから、藤森さんに設計を依頼しようと考え
る人は、ほとんどいなかったということがわかります。(もっとも多忙を極める人で
ありますからして、おそれおおくてだれもいえなかったでしょう。)
 三作目となったのが「ニラハウス・薪軒」と名付けられたもので、これの施主さん
赤瀬川原平さんでした。
 それに続いての作品は、44年前の出会いによって赤瀬川さんにもたらされたものと
あります。
「四十四年前、若き日のアブナイ赤瀬川さんが京都書院で小さな展覧会をやった時、
同書院の井上章子さんと秋野等さん夫妻、さらに等さんの御母堂の秋野不矩さんと
親しくなりその縁で私に美術館(秋野不矩さん)の設計が任された。
公共の博物館と美術館、二つの住宅、この四作のおかげで建築界と社会で認知され、
建築家としての道が開かれ」
 赤瀬川さんがいなくとも建築探偵 藤森さんは存在したが、赤瀬川さんがいなけれ
ば、建築家 藤森は存在しなかったというようなかきっぷりです。
 当方が、この文章をうれしく思ったのは、44年前の京都書院での展示についてふれ
ているからであります。当方にとっても赤瀬川さんというと、今はない「京都書院」
の思い出につながります。 http://d.hatena.ne.jp/vzf12576/20141105
 あの時代に赤瀬川さんの展示を行った京都書院はすごいと思います。
芸術新潮」でも赤瀬川さんの特集をしているとのこと、これはのぞいてみなくては
いけません。

芸術新潮 2015年 02月号 [雑誌]

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