小樽にゆかりの瀧口修造さんについてを話題にしていました。戦時中の一番苦しい
時に瀧口さんが、北海道小樽に身を寄せることができていたら、すこしは違ったこと
になっていたろうかと、たらればな話であります。
当方はシュルレアリスムの世界には疎く、瀧口修造さんについても知るところは
すくないのでありますが、ずっと昔に購入して読まずにおいてあった瀧口さんに関す
る著作などを虫干しするかのようにとりだしてきて、ページをめくっておりました。
瀧口修造さんについては、どういうわけか著作集(コレクション)がみすず書房
からでているのですが、それはまったくのぞいておりませんし、今回の展示の図録
なども買っていないのでありますので、飯島耕一さんが「冬の幻」のなかで話題に
した瀧口さんの戦時下における活動についても取り上げる人がでているのかも知れ
ません。
その昔は、文学者の戦争責任ということで戦時下において戦争協力の作品を発表
した文学者を糾弾するということがありましたが、敗戦後60年を経過して、その
ようなことは話題にもならないようです。
消極的な戦争協力詩をつくって、これを免罪符にしようとしたら、そんなもので
は免罪符にはならないといって、もっと積極的なものを制作することを強制された
時代があって、その時代に定職を持たず、蓄えも多くなく、繊細な神経の詩人は、
どういうふうに生きていくことになったのかであります。
飯島耕一さんの「冬の幻」を読んで、これは宿題にしておこうと思ったことは、
次のくだりであります。
「石神井公園駅近くの久野収の家で、Tさんの奥さんが呟いたことばも浮かんでき
た。半年前から、Tさんの奥さんはある伝があって、大学から在外研究で留守中の
哲学者久野収の家を借りて住んでいた。・・・・
久野収の書斎には、Tさんの蔵書をダンボールの箱に詰めたのが山積みされて
おり、奥の間にはTさんの集めた(というより世界中の画家や彫刻家から贈られた)
数々のシュルレアリスム的オブジェが、これもダンボールに詰め込んでうずたかく
積まれていた。久野収というアクチュアリティを重んじる哲学者の家に、
シュルレアリストの遺した『物』が収められていることにはある感じがあった。」
この時、すでに瀧口さんは亡くなっているのですが、瀧口さんと久野収さんを
結ぶあるつてというのは、なんでありましょうか。