小樽にゆかりの 12

 瀧口修造さんが、佐藤朔さんに「行方不明の詩人」といわれるにいたったのは、戦時中
に発表せざるを得なかった、ただ一篇の詩のせいではないかというのが、飯島耕一さんが
「遠い傷痕」のなかでいいたいことのようであります。
「この詩が、以来小骨のようにTさんの咽喉にひっかかったのではなかったか。そのため
Tさんは、この詩が無かったかのように思いたくなり、しまいには忘れることもあったの
ではないか。しかし無いものにすることによってますます存在する一点というものはあっ
た。現実というものは、そうしたものであった。」
 瀧口さんに「詩をもう一度書いてはどうですか」と、何度かすすめたそうですが、その
たびに「いや、わたしは」と言葉を濁したともあります。このようにして、詩を書くこと
から自らを遠のけたようであります。
 そして、このあとに、瀧口さんは「自筆年譜の一部に、「止むを得ずして、『春ととも
に 若鷲のみ魂にささぐ』を執筆、発表」と書き入れるべきだった。」と記しています。
「そうすることによって、Tさんの思想と行動の一貫性の印象は失われ、傷つけられるか
もしれないが、その傷からこそより深く、するどい痛覚をともなった、別の何かが生まれ
たのではなかったか。」
 瀧口修造さんが、西脇順三郎さんのように裕福で、精神的にタフでありましたならば、
止むを得ずに時局に協力ということはしなくても済んだかもしれません。小樽の長姉が
健在でありましたら、疎開するかのように身を寄せることも可能であったかと思います。
そうしたもろもろのことが、瀧口さんへの助け船とはならなかったようであります。
「西欧の詩人ならアメリカに亡命したところだろう。事実ブルトンをはじめとして、
フランスのシュルレアリスト詩人も多く自国の外にでた。とくにニューヨークに亡命し
た。
だが、日本の詩人には亡命する場所がない。これは再検挙をのがれるための致し方ない
というば致し方ない弁明としての詩だった。」
 「遠い傷痕」には、このようにもありました。
 それにしても、若い時の瀧口さんは、「山の中の分教場のようなところで代用教員を
して子供たちを相手に一生をおくる決意をしていた」とありましたのに、北海道に戻る場
が無くなっていたというのは、本当にお気の毒なことでありました。