小樽にゆかりの 2

 瀧口修造さんのことをどうして知ることになったのだろうと思っています。小生が
予備校で知り合った友人で、高校時代にシュールな文化活動をしていたというのがいて、
彼が前衛芸術に興味を抱いているということで、その当時にでた「瀧口修造の詩的実験」
のことが話題になったのだろうか。彼のところで、この本を手にしたことがあるように
思うのですが、あれは1969年のことでありました。この本が出たのは、1967年であり
ますので、当方の高校時代でした。高校の時に、「瀧口修造の詩的実験」を購入すると
いうのは、都会の高校生であります。その後、彼は美術に関心を抱きつつも、ごくごく
まっとうな人生を送っていまして、シュルレアリストになることはありませんでした。

滝口修造の詩的実験 1927~1937

滝口修造の詩的実験 1927~1937

 これの元版(友人が架蔵していたもの)は、その後、かなりの高額物件となっていて、
この本の値段が話題となるたびに、友人は、これを持っているのだが、あれはどうした
ろうかと思っております。
 この「瀧口修造の詩的実験 1927-1937」は、ほとんど詩を発表しない 瀧口修造
まぎれもない詩人であることをあきらかにしたものですが、二十代から三十代にかけて
の詩作が、六十代になってから刊行されるということになりました。
 この「詩的実験」については、慶應の学生時代からつきあいのあった佐藤朔さんが、
次のように記していました。(「本の手帖」1969年 No83 に収録の文章「若き日の
ことども」より)
「彼は欧米の前衛文学・芸術からまなんだものを自作のなかに吸入して完全消化して
しまっている。フランスの詩人のではツァラブルトン、エリュアールなどを愛読して
いたが、その他ロートレアモンランボーも西脇も瀧口の詩のなかに完全に消化されて
痕跡をとどめていない。しかも、それらを雑誌に発表したきりで、あるいは未完の
まま、詩集に編もうとせず、歳月の風雨にさらし、戦火に焼けくずれるままにしておい
た。高円寺にあった彼の家が焼夷弾によって焼け落ちたあとにうず高く残っていた書籍
や原稿の灰を、僕はいまだに忘れることができなし。
 それらが、三十年後に探し出されて「瀧口修造の詩的実験 1927-1937」という一書
にまとめられたことは、僕にとっては行方不明の詩人に再会したような思いがする。」
 この場合の「行方不明の詩人」というのは、二重の意味でありまして、瀧口修造さん
は「行方不明の詩人」でありました。