山の子供 2

 小沢信男さんによる畔柳二美さんのスケッチには「十五歳年上」とあります。
そうなると今年あたりは畔柳さんの生誕百年であるかなと思って、見てみましたら、
1912年生まれとありますので、百年は昨年でありました。同年の作家には武田泰淳とか
森敦の名前がありました。北海道つながりでは、彫刻家の佐藤忠良さんが、この年の
生まれです。(1912年は年途中の7月に明治から大正となっています。畔柳さんの
お生まれは1月ですから、明治45年となります。)
 ということで、小沢信男さんの「通り過ぎた人々」から畔柳さんについてのところの
引用を続けます。
畔柳二美は、1912年(明治45年)に北海道千歳村に生まれた。父は王子製紙発電所
技師だった。札幌の女学校を卒業したころから社会運動に関心をもつ。窪川稲子の
『キャラメル工場から』に感銘して、作者に手紙を送ったのが1932年、二十歳のとき。
翌年上京して美容学校に入学する。」
 このあと、畔柳さんは仕事についてから結婚し、ご主人が戦死したのち、小説の習作
をはじめたとあります。そのときは四十歳に近い年齢となっていました。亡くなったの
は52歳のときとありますので、作家としての活動期間は十年ちょっとのことになります。
 作品としては、自分の身辺に題材をとったもの(といっても私小説ではない)が多い
ようですが、一つは北海道での暮らしを描いたもので、もう一つは戦争で夫をなくした
女性を描いたものでらしいです。
小沢さんは、後者の作品群について「主題を一息に申せば、戦争未亡人の生活と意見。
赤紙一つでふいに夫をうばわれた女たちの、ことごとに理不尽な歳月を、いっそ快活に
描いた。」と記しています。
 もう一方について、「山の子供」に寄せた壺井栄さんの文章には、「これはお得意の
発電所もので、畔柳さんの独壇場ともいうべき世界を描いて『姉妹』とならぶべき作品」
とあります。壺井さんの推薦文の後半には、「畔柳さんという人は、血の涙や汗をなが
しながら気ばって書くものと、反対に楽しみながら、らくらくと、もしかしたらペンの
運びと一しょにくっくっ笑いながら書くものとがある。」とあります。
 「戦争未亡人の生活と意見」は「気ばって書くもの」で、「姉妹」「山の子供」は
「くっくっと笑いながら書くもの」となるのでありましょう。