山の子供 3

 当方が畔柳二美さんの連作集「山の子供」を手にしていますのは、今から50年も前に
当方が「山の子ども」と呼ばれていたことがあったことも関係していますが、それ以上
にこの作品の舞台に、短い間ではあるものの居住していたことによります。

「山の子供」の舞台となったのは、北海道にある王子製紙発電所であります。
畔柳さんは、かっての千歳村生まれとありますので、王子製紙発電所でお生まれに
なったようです。
 畔柳さんの「山の子供 一」には、次のような記述があります。
「そこは、北海道の山の中の発電所であった。一番近くの町へゆくのにも、片道七里の
道を歩かなければならなかった。発電所で産まれ育った子供たちは、そのころ、誰一人、
その町を見た者がいなかった。」
 畔柳さんは、明治45年に山の中の発電所で産まれたわけです。その当時でしたら、
よくもこのようなところに人が住むようになったものと思われるような場所です。
この発電所は、製紙工場を動かすために必要な電力を供給するもので、水力発電所を建設
する場所が見つかったので、製紙工場の建設にも着手したというものです。
 製紙工場の建設にあたった工事関係者の方が残した文章が、次のものにありました。
職人 (中公文庫)

職人 (中公文庫)

 いずれにしましても、今から100年も前の北海道での工場建設に関するものですから、
その大変さは想像を超えるものがあります。こういうことが可能となったのも明治という
時代のなせるわざでありましょうか。
 それはさて、畔柳さんのお父上が、何年に山の中の発電所に着任したかはわかりません
が、流域にある一番大きな発電所は明治43(1910)年発電を開始したとありますので、
畔柳さんがお生まれになったのは、発電開始からまもなくのことです。
 「山の子供 一」から「発電所」についての描写を引用です。
「ダムには五つの水門が並び、更に、そこから谷底へと向かって巨大な黒い鉄管が五本、
真っすぐ伸びていた。クローバー原の端ずれに立って見おろすと、その黒い鉄管の先に
は赤煉瓦の発電所が足下にマッチ箱ほどの大きさでみえ、そのまわりには更に小さな社宅
が二十軒ほど並んでいた。・・・
 右をみても、左をみても、クローバー原の周囲は森林だったし、子供たちのうしろも森
林だったが、彼等は、もうこの森林をふり向こうともしなかった。ここは、社宅の前の
空地の切れた所から二本のレールが森林を縫って私設鉄道が敷かれてあった。町へ続く
唯一つの道であった。この汽車は、雪が降ると冬中は姿をみせず、夏場も、時折、思い
だしたように突然ピーポーと訪れる程度であった。」
 王子製紙千歳川第一水力発電所のことであります。記憶によって書いているのか、再訪
して取材したのかわかりませんが、「巨大な黒い鉄管が五本」というところは、事実に
あっておりません。壺井栄さんが記するように「らくらくと、もしかしたらペンの運びと
一しょにくっくっ笑いながら書くもの」でありますからして、あまり細かいことはいわな
いほうがよろしいでしょう。