幸運な医者 5

 松田道雄さんはドイツ文学者 本野亨一さんが亡くなったときに、弔辞をかいたと
あります。
「 本野亨一という人物を友人として私がどうみているかを弔辞にかいた」ということ
です。いま本野亨一さんを検索しますと、カフカの翻訳と甲南女子大に残した蔵書のこと
がヒットしますが、その人となりについて書かれているものはなくて、これは残念であり
ます。松田道雄さんによる弔辞は、本野さんについて書かれた貴重なものと思われますの
で、これを引用させてもらいます。
「本野君は文学者でありました。
 そしてオリジナルな文学者でありました。
 オリジナルであるがゆえに、ドイツの文学者の中でカフカを選ばれました。
『審判』の最初の紹介者として本野君は文学史の中に記されています。
本野君を『不安』と『孤独』の探求者とするのは誤りであります。
文学は『不安』と『孤独』よりももっと深くひろいものであります。
彼はカフカと文学を共有したのです。
カフカにとって『文学でないもの』は仇敵でありました。
本野君の生活のなかで『文学でないもの』はひとかけらもありませんでした。それは
彼の身だしなみのダンディであることにもあらわれていました。
カフカは文学において『あらゆる妥協を退けて最も高いものにせまる激情』をみせまし
た。
本野君もまた文学の発表について妥協するところがありませんでした。作品を本にしよう
とした書店にもう少しの妥協があったらその著書は『文学の経験』と『フランツ・カフカ
のこと』の二冊にとどまらなかったでしょう。編集者たちは、彼の文章の硬質にたじろい
だのでした。
彼の文章が本として残らないのは私どもには残念です。」