六枚のスケッチ 4

 本野亨一さんの「文学の経験」の「はじめに」からであります。
 「書くというがいったい誰にあてて何を書くのかという自問自答」であります。
ここのところが、うまく突破することができないようでありまして、結局のところ具体
的な読者が想定されないのでしょうか。
 昨日に引用したところの続きであります。
「 書くとき、いわば架空の読者というものが私にはあります。学校の教室で話すとき
の、聴衆です。
 ただし大教室と呼ばれるがらんとひろい教室で、登録した学生の数は収容できるように
スペースはとってあるのだが、じっさいはほとんど例外なくなるべく話す者からとおざか
るようにして、聴衆は散漫にちらばっていて、熱心にもみえ、また、ほかにかくべつおも
しろいこともないのでたまたまたちよったようにもみえ、批判の塊にもみえ傍観と無関心
そのものにもみえ、とつぜん不可解な仕方でエネルギーがばくはつするようにもみえ、
てんで相手を受けつけようとはしないようにもみえ しかしそれらの人たちを放置する
ことは職務上ゆるされていないが、といって、じゅんじゅんとして説く境地からは私は
ほどとおいので、コミュニケーション絶無のコミュニケーションという課題を突き付け
られて、途方に暮れ、声はたしかにだしているのだが、その格好は、壇上で立ちすくんで
いる姿勢なのだ、と思います。」
 「架空の読者」というのは、自分の講義に登録している学生であるとのことですが、
その学生たちとの間で、うまく意思の疎通をはかることができていないようにも思える
書き方であります。学生からすれば、「親しみぶかい態度で文学の門のかたわらにたた
ずみひとをさしまねく表情とか、自然にあふれる炉辺談話的な滋味とか、あるいは、
強烈な意志から生まれる告発とかするどい訴求」というのがないのでありますからして、
こうした講義についていくためには、けっこう高いレベルのものが求められるようで
あります。