幸運な医者 4

 松田道雄さんはドイツ文学者 本野亨一さんと旧制中学以来の友人と書いています。
「彼とはクラスはいっしょにならなかったが、一中、三高と、学校の庭でよく話をし
た。京大はドイツ文学科にいったので大学時代はほとんどあわなかった。NHKに
入って京都局づめになった頃から時どきあうようになった。・・
 彼は日中戦争がはじまると、兵隊にとられて、七年間転戦した。復員してNHKの
東京の局にもどって、かなり重要なポストにいた。定年後は大阪に帰ってきて立命館
大学でドイツ語を教えた。そこが定年になって、甲南大学の女子部の校長になった。」
 大学の語学教師というのは、大学にはいってきたばっかりの学生たちを受け持つので
ありますが、大学に入った解放感からかほとんどやる気が見られない学生を相手に
講義をするのでありますから、たいへんです。大学でドイツ語を教えていた小説家の
中野孝次かは、とってもがまんならんと早々に辞めてしまったはずであります。
 本野さんは、それとは逆にNHKを退職してからの大学教師でありました。
ドイツ語を教えてくれる本野という先生は、カフカの翻訳をしていて、それは角川
文庫にはいっているそうだというようなことがクラスでささやかれたのですが、
そのことを、先生にむかって話題とする学生はいなかったようです。
 学生時代に先生と個人的な話をすることは皆無でありました。別に対立していた
わけではないのでありますが、とにかく怠け学生でありましたので、先生の懐に
飛び込むなんてことはできませんでした。
 他の大学から教えに来ていた若い語学教師が声をかけてくれて、その先生について、
その方が講師をつとめる大学の研究室を訪ねたというのが唯一の例外でした。
 授業中に本野先生が話したことで、今も記憶に残っているのは「大学の教師に
碩学ということを求めるであろうが、そうした人はめったにいなくて、私も
そうである。」というようなことであります。細部はあいまいでありますが、この
ときに碩学としての代表的な存在として吉川幸次郎さんの名前があがったでしょう
か。
 自分を偉そうに見せない人として、20歳前後の当方に印象づけられました。