六枚のスケッチ 7

 「私は、まるで文学を食べて生きているとでも言いたそうな重苦しい自分の顔付きを
思い浮かべ、そのような文学に対する嗜癖は『根源的』にはいったい何なのか、という
問いをその顔にむかって投げつけます。あの架空の読者たちが不可解なエネルギーの
充溢に駆り立てられるとき、とつぜん『根源的に』放つ問いであり、私はとつぜん
からっぽになって、返答を失う問いであり、棒立ちになるのですが、それでも私は、
いくたりかのすぐれた人たちを、私の重い気持ちの同質者であると確認して、あるいは
きめこんで、支援をもとめ、そのひとたちがめいめいの言葉で表現した『べつな状態』
の経験の記述を援用して、自分の『立ちすくみの構図』を架空の読者たちに表現して
みせることを、やめるわけにはいかないのです。」
 本野亨一さんの「文学の経験」の「はじめに」の終わりのところにおかれた文章で
あります。ここまできて、すこし見えてくるものがあります。
 架空の読者たちというのは、60年代後半の学生たちを想定すればよろしですね。
かっては、大学の授業の途中で学生たちが教師に「この時代に文学を学ぶに、どういう
意味があるのか」というような問いを投げかけて、論戦をしかけたのであります。
もちろん、多勢に無勢で、何をいってもナンセンスで、議論にはならないのであります
が、この問いかけは「根源的」であるだけに教師としては無視するわけにいかず、しか
も正解を得ることができないということで、誠実な教師ほど壇上で「立ちすくんだ」
ことでありましょう。
( 当方が大学に入った70年には、大学闘争は終息にむかっていて、授業は普通に
行われていて、学生たちが根源的な問いを教師にぶつけて、立ちすくませるなんて
ことはありませんでした。) 
 本野さんは、こうした学生たちに対して、言葉でむかおうとしたとあります。
自分の説明では納得いかないとすれば、すぐれた人たちの「経験の記述」を援用し、
あくまでも言葉での説明をやめるわけにはいかなかったとのことです。
 「文学の経験」とは、60年代後半の反乱の時代に学生たちからつきつけられた問いか
けに対する本野さん流の回答でありますか。
「これはそんなふうな、文学に対する私の立ちすくみ・棒立ちの経験の、記述です。
同じことですが、私が伴侶ときめこんだ『書く』ひとを対象にしたスケッチです。
私には抽象化の造型力が欠落しているので、記述はなにか私的な語りとしてしかまとま
らず、大作の下絵ではないスケッチが六枚、出来上がったと思っています。」
 ここまでが、「はじめに」であります。