ひとつの自伝 3

 静岡大学での小川五郎(高杉一郎)教授の文学概論には、すみのほうに「児童文学」
が位置づけられていたと昨日引用しましたが、「小川先生とて子ども文学の専門家では
なかった」と、清水さんが記しています。大学の卒論を「英語圏の児童文学」をテーマ
とすると決めてから、四年になる春休みの一日、先生の自宅を訪ねて卒論のため用意し
ておく基本的な資料について教えをこうたそうです。
「日本での子どもの文学研究はまだ始まったばがりで、小川先生とて子ども文学の専門
家ではなかった。それもあってか、このとき先生が教えてくださったのは、研究社から
でていた『英米文学史講座』の第八巻だけだった。これが先生から示された卒論を書く
ための唯一の手がかりだった。それも一冊まるごとではない。『講座』第八巻は十九
世紀の英米文学を概観したもので、・・その最後に石井桃子が二十ページほどイギリス
を中心とした子どもの本の成り立ちと状況について書いており、小川先生はそれを教え
てくださったのだった。」
 これは1963年3月のことだそうです。翌年に東京オリンピックを控えていた日本の
子ども文学の状況は、このようなものであったのですね。
 驚いたのは、このあとにおかれている次のところです。
「この日が、私が学生時代、個人的に小川先生に接した初めての日であり、最後の日
だったことになる。」
 なんとなく、「先生とわたし」のような師弟関係を思ってしまうのですが、卒論の
指導教授であるというにもかかわらず、「以後研究室にも先生を訪ねることはなく、
事前のチェックも受けず、決められた日に提出、そのまま、コメントひとついただか
ないまま、卒業してしまった。」のだそうです。
 こういう「先生とわたし」というのもありなのですね。
「私は自分が先生方にとっても、まわりの友人たちにとっても、どうということの
ない存在であることがわかっていた。ただ少人数の学科ゆえ、いくら小川先生でも
こちらの名前ぐらい憶えていてくださるだろう。勝手にそう信じこんでいた。それ
さえこちらの思い込みだったと知ったのは、卒業して十年余りがたってからのこと
で、その日は私は先生が主宰しておられた読書会のメンバーのひとりから、卒論を
読むまで私という学生の存在にまったく気づいていなかった、と先生がぽろっと口に
されたことを聞かされたのだった。私はそういう学生であり、先生もまたそういう
先生だった。」
 この卒論が、小川先生に目にとまり、先生のすすめで書き直したものが、
清水さんの最初の児童文学評論となったわけです。