夏の読書 3

 今年の夏の読書は、加賀乙彦さんの「雲の都」シリーズにしようというお話であり
ます。このシリーズが完結して、新潮社から刊行され、加賀さんへのインタビューが
新潮のPR誌「波」に掲載されていました。
 86年1月に「新潮」で連載開始となった「永遠の都」に続くものですが、これについ
て、次のように発言しています。
「戦後を描いた『雲の都』では、私自身の日記がおおいに役だちました。」
 昭和十年から敗戦直後までを描いた「永遠の都」のときには、自分の母方の祖父が
残した日記が役にたったという話を受けてのことであります。
どうも、このような自伝的な小説を残そうとしたら、日記をつけるというのは欠かせ
ないようであります。
 小説を書こうなんてことは思ったことはありませんが、当方も日々のメモとして日
記のようなものをつけておりまして、それには、次のようなメモがありました。
「1987年7月7日 職場近くの居酒屋で一杯のみ、そして新宿へでて”カーニバル”で
ニューハードを聞き、その次に”火の子”へ行く。”火の子”では加賀乙彦の顔を見
た。すぐ隣にすわっていて、その話を聞くのが楽しみでありました。」
 今回の「波」を見て、そういえば当方の日記のどこかに加賀乙彦さんをみかけたこと
を記してあるはずと思ったのですが、この日にちを特定するのに、すこし時間がかかり
ました。加賀乙彦さんを店でお見かけしたのは、東京勤務時代のことですので、それは
昭和61年から平成元年のあしかけ四年、まる三年の話でありまして、その時代の日記
メモは、前半はクロワッサン手帖で、後半は能率協会のバインデックス手帖に記されて
いるのでありました。結局は87年の手帖のなかほどに上記の記述が見つかりました。
 場所は伝説の”火の子”であります。今考えると敷居の高い店でありますが、年長の
方に案内してもらい足を踏み入れ、この時は当方が知人を案内しての二回目でありまし
た。結局、この二回だけで”火の子”の常連となることはなしでした。 
 加賀さんは小学校時代の古いお仲間とおぼしき男性グループでいらしていて、お話が
盛り上がっていたのですが、他の方々が「おぎちゃん」と呼んでいましたので、お顔と
お名前から、これは加賀乙彦さんとわかったわけです。
 皆さんわきあいあいとしていて、すぐ隣の当方にむかっても語りかけてくれたりした
のでありますが、もちろん加賀さんですよねなんて無粋なことをいうことはなしであり
ました。