平凡社つながり 32

 石塚純一さんの「金尾文淵堂」を手にしていますが、紹介しようとしますと、キセル
読みとなりまして、前書きから冒頭の一部と後書きをいきなりにつなげ てしまうことに
なってしまいます。(なにせ、全然読めていないのですから。)
 というわけで、この本の内容ではなく、周辺部分をうろうろとするしかありません。
 この本のあとがきからです。
「 東京の出版社(平凡社のこと)を辞し、札幌に来て八年になる。学生たちに出版や
本についてごちゃごちゃと語っているうちに、出版が文化に果たす役割の少なからぬ
重さに気づいた。編集者時代には仕事に追われ、何をやっているのかわからぬ日々も
あった。しかし若者と語り合うのはもちろん、資料を集め、撮影に出張し、図版の描き
起こしを依頼し、装丁者と打ち合わせる ・・金尾文淵堂の本を調べながら、一冊の
本が仕上がっていくときの喜びがよみがえってきた。」
 このあとがきが書かれたのは、2005年1月とあります。これにつづくところでは、
「この八年の間に出版の環境は加速度的に変化した」と記されています。出版の環境
というなかには、作り手のほうの変化もですが、読み手のほうの変化も含まれている
のでしょう。
「私たちに親しい本は、長い歴史のうねりの中で形づくられ、変化し継承されてきた。
作品は出版社を通してはじめて『作品』になり、書き手は出版者によって『著者』と
なる。そういう制度を近代の出版がつくってきたわけだが、その関係性が揺さぶられ
ている。出版者を中抜きし、書き手と印刷会社だけで本をつくることは十分に可能で
あり、そういう方向へ進んでいる。しかし、出版者が後景に退くことによって、確実
に出版文化は見慣れぬものへと変質するだろう。代わってやってくる新しい文化が
どのようなものか興味深いが、知を演出し媒介する出版者、編集者の仕事が文化に
とっていかなる意味をもっていたのかが改めて問い直されるにちがいない。
それは書物とは何かという問いでもある。」
 出版社ではなく出版者であります。人が書きたいことを書きたいように発表する
ことができるようになったのが、この時代であります。紙の時代であれば資源の
無駄遣いといわれたでしょう。当方のブログも含めて、なにかの浪費ではあるので
すが、それにしても印刷会社も、なにも媒介せずに伝えることができるというのは、
小さなメディアの必要そのものであります。