平凡社つながり 31 

 当方のところにあります本は、ほとんど全部が戦後の本であります。送っていただ
く古書目録には、明治や大正期に刊行されたものがのっていますが、著者にはなじみ
があるものの、版元のほうはなじみのないのがほとんどでありました。
 先月に届いた目録をみましたら、次のものがありました。
 東京印象記 児玉花外 金尾文淵堂 初版 カバー付 美本 明治44年 99750円
 これにならんで児玉花外のものがあるのですが、それは金尾文淵堂のものではない
せいか、このように高額ではありません。
 石塚さんの著書の冒頭の部分に、この児玉花外のことが登場します。
「 金尾文淵堂が文芸出版を始める時点において、平尾不孤は欠かすことのできない
人物であった。金尾種次郎を動かし大阪という一都市の趣味的な文芸出版社普遍的
地平を臨む出版社へと脱皮させる挑発者となった。・・ 
 平尾不孤が金尾とむすびつけた詩人がもう一人いる。児玉花外(1874〜1943)で
ある。いまでは明治大学校歌『白雲なびく駿河台』の作詞家としてわずかに知られる
だけかもしれない。」
 当方は「白雲なびく駿河台」という歌をうたったことはありませんが、この曲が
児玉花外の作であるというのは知っておりました。石塚さんの次のくだりを見て、
はじめて児玉のことを知るにいたった文章をさがしたのであります。
「児玉花外はその後も金尾文淵堂との交渉があり、明治44年には『東京印象記』を
出版した。『社会主義詩集』発禁の後、明治38年から40年ころまでは、詩集『ゆく
雲』などの出版や、新聞、文芸各誌に旺盛な文筆活動を行うが、大正期に入ると
『日本英雄物語』など大衆的な読み物の執筆が多くなる。大正12年明治大学の校歌
『白雲なびく』の作詞をするが、最初の結婚に失敗し、再婚の妻は病死、関東大震災
で原稿をすべて焼くなど、昭和期に入るともはや花外の名を知る人も一般には少なく
なり、アルコール中毒が進んで保護され、最後は東京市養育院で亡くなった。』
 このように強烈な生き方をした人でありますから、印象に残ることであります。
最初に眼にしたのは、井伏鱒二さんのエッセイでありました。当方は「講談社文芸
文庫」に収録の文章でしたが、これがいまは見つかりません。
 これは次の本でありますね。