平凡社つながり 24

 蘆原英了さんの「私の半自叙伝」は、いまでも入手可能な蘆原本でありますが、今は
タイトルを変えて「僕の二人のおじさん、藤田嗣治小山内薫」となっています。
 この本の巻末にある年譜をみておりまして、蘆原英了さんが中央公論社に勤務してい
たことを知りました。(過去にも何度か見ていて、そのたびにそうか中央公論社に勤務
していたのかと思っているようですが、いつの間にか忘れてしまうのです。)
 もともとは、フランスから帰国して月刊雑誌「舞踊新潮」を創刊して、編集長をつと
めるかたわらオペラとか舞踏公演の演出をしていたようです。
 第二次世界大戦後の1946年4月に中央公論社に入社し、翌年10月からは「婦人公論
の編集長をつとめたとあります。このあと中央公論社企画部長となって、1953年12月に
退社するのですが、7年半の勤続です。
 この時期の中央公論社というと、林達夫さんが在籍しておりまして、林さんと蘆原さん
中央公論社つながりということになります。林達夫さんの片腕として「世界大百科事
典」の制作に采配をふるった友野代三さんという方も、林さんが中央公論社から引っ
張ってきた方だそうです。(林達夫さんの年譜には、1945年11月中央公論社出版局長と
なって、51年4月平凡社入社とあります。)
 蘆原さんの年譜の1953年のところには、次のようにあります。
「春、ダミア来日。シャンソン・ブーム始まる。
 平凡社の『世界大百科事典』の舞踏項目の選定委員となる。編集長は林達夫。蘆原は同
事典に『バレエ』『舞踏』『シャンソン』など約100項目を執筆。」
 シャンソン・ブームとなってからは日本公演をする歌手に同行して国内ツアーをする
仕事にもついていたようです。
「わたしは今度のジュリエット・グレコの場合も各地を一緒に廻ったが、ダミア、
ジョセフィン・ベーカー、ジャクリーヌ・フランソワ、シャルル・トレネ、イベット・
ジローたちとも全国を回っている。一緒に廻っている時は、楽しいことも多いけれど、
苦しいことも多い。苦しいことというよりも、不愉快なことといったほうがよいかもしれ
ない。
 不愉快なことというのは、多くの場合、スケジュールの変更である。あらかじめ
スケジュールが決定されていて、それが急に変更になるという場合である。
 たとえば記者会見の日時が決定している。決定しているというのは、こちらのことで、
つまりこちらが勝手に彼らの来朝前にきめておくわけだが、それに向う側が従わない場合
がる。」
 アーティスト側にすれば、聞いてないよということでして、記者会見にはたくさんの
取材陣がいるし、アーティストはでないというしで、これは背中に冷や汗がはしることで
あります。