平凡社つながり 23

 蘆原英了さんの「シャンソンの手帖」を見ていましたら、歌手のダミアさんのところ
で「私のいた1933年のセゾンには」とありました。蘆原さんが1933年にフランスへと
いっていたことは、当方の記憶に残っておりませんでした。蘆原さんの年譜は「私の
半自叙伝」の巻末にあるのですが、ここには、次のようにありました。
「1932年(昭和7) 11月1日夜、東京駅を出発してパリへ向かう。11月5日、神戸よ
り照国丸で出帆。12月7日、マルセイユ着。翌8日、パリに到着。ゴーモンという映画
館の裏に住む。
 1933年(昭和8) 12月2日、パリ出発、マルセイユから榛名丸にて12月29日、
神戸着」
 フランスへといったのは、蘆原さんのおじさんであるいたせいでもありましょう。
 ダミアさんのことを書いたのは、1934年となっていますので、これは帰朝してまも
ない頃のことであります。
「私はダミアは大好きで四、五回聴いた。たいていモンパルナスのボビノか、
クリシーの広場に近いユーロペアンで歌っている。これらは何れも三百人くらいしか
入れぬ小さなミュージック・ホールであるが、外国人相手でない、いわば生粋の巴里人
エスプリを味わうところである。そうしてこうした小屋はダミアにとって誠にふさわ
しい。私のいた1933年のセゾンにはほとんど毎週のように歌っていた。私の友人が彼女
のマネージャーをしているので、一度紹介されてあったことがある。彼女は私の叔父
藤田嗣治)などが有名にしてやったので、叔父は彼女のことをよく知っている。
ダミアのことを話すなら、私よりフジタのほうがずっと適任者のわけだ。日本の漆屋
さんが四、五年の間、ダミアのアミをつとめていたこともあるそうだ。」
 1933年のパリであります。
「当時、私の叔父フジタはマドレーヌと共に南米に駆落ちしていて、ラクルテル通り
のフジタのアパルトマンには、デスノスとユキが住んでいた。私はそれまでデスノ
が住んでいた、すぐそばの、オリヴィエ・ド・セール通りのアパルトマンに居をかま
えた。デスノスの払った家賃がまだだいぶ先まであったからだ。私は毎日のように
叔父の家へいったわけだが、結局、ユキとデスノスの顔をいつも見ていたことにな
る。」
 フジタの人的なネットワークにつながっていたのですから、ずいぶんと多くの人と
であっているはずです。「私の半自叙伝」には、かろうじて大学卒業までが記されて
いて、残念なことにフランスでの日々のことは書かれていないのでした。