平凡社つながり 25

 蘆原英了さんはシャンソンで有名でありますが、フランスから戻って最初についた
のが舞踊に関する雑誌の編集長であったとは知りませんでした。
年譜をみましても、「蘆原はパリのバレエ教習所にも通い、バレエ技法の基礎などを
身をもって体得した。」とあるように、シャンソンの勉強と並行して舞踊についても
学んでいたことがわかります。
 舞踊に関する文章は、岩波「思想」にも寄稿していたりして、こちらのほうがずっと
研究家らしいことであります。サーカスとかシャンソンに関する著作が研究の入り口
くらいまでしか発表されていないのと比べますと、よりまとまっていることです。

 それにしてもせんだんはふたばよりもかんばしでありまして、大正11年 若干15歳の
時にアンナ・パブロワの来日公演を見たと記しています。
「 大震災の前年、大正11年(1922)の9月、アンナ・パブロワの一行が来訪した。
一行は約二十名の団体で、これだけ大きなバレエ団が来たことは、はじめてだった。・・
帝劇で9月10日から29日まで二十日間の講演、それも毎夕八時開演で、入場料は特等15
円、一等13円、二等10円、三等五円、四等二円という高額だった。当時の物価をしめさ
なければこの値段に対する実感はわかないが、多分、特等が今なら四千円くらいという
ことになるだろう。」
 大正期の特等15円というのは、この文章がかかれたときの四千円くらいといっていま
すが、これが書かれたのは1958年(昭和33年)でありますから、この時の四千円という
のは、ほとんど一月分の給料以上でありますね。ひょっとすると一番やすくて二万円と
いうような感覚かもしれませんです。(どこかに比較の材料がありそうですが。)
「毎夕八時開演ということも、今では考えられぬことである。これはゆっくり夕食を
すませてから劇場にゆくという西洋の風習に従った開演時間で、その点、今よりずっと
西洋かぶれだったわけである。・・
 筆者はパブロワたちの踊りは見た。しかも一番安い二円の席で見たが、今も忘れない。
昼間の二時ごろから切符売り場の前に立って、日の暮れるまで待っていた。切符は七時
から売り出されたが、もうそのころにはお堀端の松が夕暮の空に、小暗く見えた。・・
三等の五円までは前売のがあったが、二円だけは当日売りだけだった。だから昼間から
立っていたものだが、その努力はたいへんなものだったと覚えている。しかし近頃の前の
晩から徹夜して買ったのと比べれば、何でもないのかもしれない。・・
 アンナ・パブロワは二十世紀最大のバレリーナといわれ、その名声は今では伝説とさえ
なっている。この偉大な舞姫が我が国を訪れたことは、画期的な大事件で、そのわれわれ
に与えた影響はまことに大きいものであった。」
 十五歳、中学三年(旧制)の時に見たバレエの公演についての思い出話でありますが、
大正11年から昭和33年までたった36年しかたっていないことに驚きました。
 日本武道館であったビートルズの来日公演を残念ながらテレビの生中継でしかみること
ができなかったのでありますが、そのとき当方は15歳の高校一年生でありまして、それ
から半世紀もたとうとしています。上記の蘆原さんのアンナ・パブロワさんについての
文章を見て、まっさきに思い出したのは、当方の世代における「画期的な大事件」のこと
であります。