みみずく先生 2

 みみずく先生というのは、おれのことかといわれそうですが、ご本人は木兎斎といって
いるのでありまして、ひらがなで「みみずく」とはいっていないのです。まあ書名には
かなで「みみずく」としているのですから、「みみずく先生」といってもよろしいので
しょう。(なんといっても、ご本人は気難しそうでありますからね。)
 「みみずく偏書記」元版の目次ページのところには、次の口絵がありました。これが
なんとはなしに「みみずく先生」のイメージでありますね。

 ついでに「みみずく偏書記」元版の表紙も、掲載しておきましょう。今回の文庫本の
表紙とは違うようであります。

 由良さんの書いたもので、一番印象に残っているくだりは、以前も言及したことが
ありますが、なんといっても次のものですね。これは、「みみずく偏書記」の「本の囁
き」という文章のなかにあるものです。
「およそ本を読む場合、どのような本を読むかで、その人の道行が決ることは言うまでも
ないが、その道行ばかりは他の誰も決定できない。他ならぬ自分が決めることだからであ
る。
 その点、出会いに似ていると言えるかも知れない。出会いには、本人の耳許に本能的に
囁く何かがあるのが常であるが、本との出会いにも、いつもそのような囁きがある。
 自分をかえりもても、何度かそういう囁きがあった。・・・
 昭和27年だから、今から三十年昔のことになる。哲学科を終えて、英文科に学士入学
した時だった。もともと文学が好きだったが、文学をやっていると哲学にひかれ、哲学
をやっていると文学にひかれるという、自分ではどうしようもない心の動きに翻弄され、
結局、両方やるしかないと考えての学士入学だった。」
 当方は、たんなるミーハーな物好きでありますが、こういうのを読むと、「自分では
どうしようもない心の動きに翻弄され」というところを、自分に都合よくとらえ、以後
は雑読と積読の道をまっしぐらとなったのであります。