庄野潤三追悼3

 庄野潤三さんと阪田寛夫さんのどちらを先に読みはじめたのかはっきりとしま
せんが、とにかく、二人は阪田さんが亡くなるまで友人関係にありました。庄野
潤三さんの告別式には阪田さんの娘さんが弔辞を読んだとのことでありますので、
その付き合いは家族ぐるみで3代にわたっているのかもしれません。(阪田さんの
ご兄弟は、庄野の父上が創立した帝塚山学院の出身ですし、大浦みずきさんの名付け
親は庄野さんでありますからね。)
 庄野さんの「文学交友録」には、九州大学時代の文学仲間として「島尾敏雄」さん
なども登場しますが、島尾さんの文学世界と庄野さんの世界が違いすぎるせいも
あって、文学仲間であったということがにわかに信じがたいことです。
 それでいきますと、庄野さんと阪田さんは、ともに大阪の中流(当時の大阪の
上流というととんでもない金持ちでありましたから)で、できたばっかしの朝日放送
机を並べた関係で、交流は50年以上になったのです。
 庄野さんの「文学交遊録」には、阪田さんのことについて、次のようにありました。
「 私が物静かで控えめではあるが仕事に情熱をもっていて、骨身惜まず働く阪田寛夫
と机を並べて仕事をしたのは二年間であった。昭和28年9月に私は朝日放送東京支社
へ転勤のため、まだ小さな二人の子供と妻を連れて東京へ引っ越した。その翌々年の
30年2月に芥川賞を受賞して、8月に会社を辞めた。
 阪田の方は、昭和41年に『文学界』に発表した『音楽入門』が芥川賞候補になり、
文芸雑誌から注文が来るようになった。阪田はそれまで38年に制作部の次長にまで
なっていた朝日放送を、私のあとを追うようにして退社した。その後、もとの勤め先の
朝日放送の雑誌に連載した『わが町』が直木賞候補に推されたりしたが、うまくゆか
ず、やがてNHKのテレビの連続放送劇の仕事に時間をとられるようになった。・・・
子供のための歌と音楽畑での活躍は目覚ましいものがあった。だが、小説が書きたく
て会社を辞めた阪田にしてみれば、事志と反する歎きは日ましに強まっていたかも
知れない。」
 放送局の制作部員としては阪田さんは、ずいぶんと有能であったようです。
阪田さんの代表作の一つである「海道東征」という作品は、放送局で制作した番組を
モチーフとしたものです。たぶん、そのまま会社にいれば、制作担当の役員になったで
しょう。
 そういう会社での出世を捨てての作家への道ですから、庄野さんは心配をされたの
でしょう。庄野さんの作品の解説などを阪田さんが多く書いているのは、そうした
ことへの配慮であるのかもしれません。
 講談社からでた「庄野潤三全集」各巻末には、阪田さんが書いたノートがあって、
それは加筆等されて、昭和50年5月に冬樹社から「庄野潤三ノート」として刊行され
ました。ちょうど、この前に「土の器」で阪田さんは72回芥川賞を受賞し、庄野さん
は、肩の荷をおろしたようにほっとしたのではないかと思うのでした。
「『土の器』による芥川賞受賞の発表のあった晩、外出先の劇場で知らせを受けた本人
から電話がかかった。いつも静かに話す彼の声がこのときは一層ピアニシモになった。
長女は結婚していなかったが、家にいる子供が一人一人電話口でおめでとうをいった
あと、みんなで受話器に向って万歳を唱えることにした。阪田は家族で唱える万歳を
無言で聞いていた。」